江戸日本橋から金谷宿まで207.3Km、島田宿~金谷宿間3.9Km


金谷宿:金谷河原は単なる大井川の河原に過ぎなかったが、1590年(天正18年)年の豊臣秀吉の配置した中村一氏の「天正の瀬直し」で大井川の流路を東側に変えてから人の住む土地となった。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代における東海道53次の主要な宿駅のひとつとなってからである。

そして大井川の金谷側の川越施設は金谷河原に造られ、金谷本町には他の宿場と同じように伝馬役を務める施設を造って役割分担をしていた。金谷周辺の丘陵には茶畑が多く、特に南側の牧之原台地は大規模である。この牧之原台地は明治初期勝海舟らが、窮乏生活をしている旧幕臣らのために地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡県が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。1万5千ヘクタールの大茶園は東洋一の規模となっている。観光協会資料より

本陣:3軒、脇本陣:1軒、旅籠:51軒


大井川にかかる大井橋(1026.4m)を渡って左側堤防を100mほど行ったところの道を左に入ったところが、旧東海道となる。

川越え・島田側から 大井川橋(金谷側) 旧東海道入口 金谷宿案内板 川越えの様子

金井宿案内板の先を講師の案内で脇き道に入り、SLの汽笛を聞きながら500mほどの新金谷駅裏手(?)には歌舞伎でも有名な日本左衛門の首塚がある宅円庵がある。愛しい人がここに首を持ってきて埋葬したと言う。昔の話には「情」がある。街道に戻り、100mほど行くと金谷宿の入口になる八軒屋橋(現東橋)がある。ここを渡ると江戸時代は島田宿と同様に、川合所や川越人足の番宿、渡し料金の精算をする「札場」などの川越し施設が立ち並んでいたはずだが名残は見られない。

八軒屋橋から道なりで西へ、SLで有名な大井川鉄道新金谷駅の左手の踏切を渡るときにSLが見える、にわか“てっちゃん、てつこ”の撮影会となる。

宿跡(九番宿) 日本左衛門首塚
宅円庵
新金谷駅・SL 鯉のぼりが・・ 山田屋本陣跡

約400m行くと大代川にかかる大代橋があり、それから少し行き南西に曲がると金谷宿の本町の町並みに出る。町並みは左右に山を見る道で800mほど続く、中ごろ右側に山田屋本陣・佐塚書店前の佐塚本陣跡、柏屋本陣跡の立札がある。町並みを抜けるとJR金谷駅手前に丁字路があり、旧東海道はJR東海道線のガードをくぐる左へ進む。そのガードの入口に金谷一里塚の立札がある。

ガード下をくぐるとすぐ長光寺にあがる階段がある。


左塚屋本陣跡
柏屋本陣跡 お七里役所跡 定飛脚(三度屋)跡 金谷一里塚

長光寺は金谷宿では唯一の日蓮宗寺院で、本堂の東側の一角には芭蕉の「道のべの 木槿は馬に 食われけり」句碑がある。

宿場案内図 長光寺階段 本殿 鐘楼と芭蕉句碑 金谷大橋
(西入口土橋)跡

旧東海道に戻り200mほど行くと不動橋がかかっている。ここは金谷宿の西の入口にあたるところである。現在の橋は昭和27年に架け替えられた鉄筋コンクリート製である。

不動橋を渡ると、急勾配の金谷坂が続く。金谷の一里塚から約300mのところで国道473号線に出て横断したところに、旧東海道石畳(登り)入口がある。この石畳は江戸幕府が金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道を旅人が歩き易いように山石を敷きつめたといわれている。

現在の石畳は近年これが殆どコンクリートで舗装されてしまったのを、平成3年に地元町民が延長430m区間を(71千個の石で)石畳に復元したものである。石畳の坂道を50mほど登ると右手に石畳茶屋がある。ここには疲れた体を癒し、元気を取り戻す庭園があり、お茶をいただきながら一休みするにはとてもよいところだ。

石畳茶屋を過ぎると、すぐ右に小さな広場がある。そこに入るとすぐ左に、鶏頭塚がある。蕉風を広めた俳人六々庵巴静の句「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」が刻まれた自然石碑があることから「鶏頭塚」と呼ばれている。広場の奥には庚申塔が建てられている。江戸時代の大泥棒の日本左衛門は、この庚申塔で夜盗姿に着替えしたと伝えられている。

ふと石畳の道を振り返ると、急な坂であることが改めてわかった。金山坂登り口から約460mで金谷坂の石畳は終わり、薄暗い杉木立の道から舗装された町道諏訪原城線の丁字路に出る。

金谷坂・石畳 石畳茶屋 石畳 鶏頭塚 庚申堂

旧東海道に戻り440mほど行くと白い立柱の案内標識の諏訪原城跡に出る。この城は1573年(天正元年)に武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築いた城で、武田家の守護神の諏訪明神を奉って諏訪原城と名付けられた。自然の地勢を巧みに生かした山城であるが、現在は建築物が残っていないので、単なる茶畑・森のように見えるだけである。戦国期の城郭跡として、昭和50年に国の史跡として指定されている。

さらに旧東海道を100mほど行くと菊川坂の下り入口に出る。

すべらず地蔵尊 石畳・下り口 諏訪原城址・堀割 諏訪原城址・家臣の墓 菊川坂

この石畳の道は牧之原から菊川の里までの急斜面が続く坂道で約700mある。時には茶畑を周りに見て目をやすめながら、蛇行して続く急斜面の菊川坂を下る。石畳の坂を下り終わると舗装された道にでて間もなく菊川にかかる高麗橋を渡ると、菊川の町並みに入る。橋を渡って道なりに右に曲がるとすぐ右側に、木製お堂の中に錆びた鉄製の秋葉常夜塔がある。通常常夜灯は石造であり、鉄製は珍しく初めて見るものである。さらに200mほど歩くと、右に広場があり奥には立派な地域活性化施設「菊川の里会館」(本日はお休み)がある。ここで小休止。

菊川の里の詩碑・歌碑 菊石 青木坂
小夜の中山入口
急坂を登る 九延寺
(きゅうえんじ)

間の宿菊川:間の宿は本宿との中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩の便宜をはかるために作られた。通常は本宿間の距離が12Kmから16Kmに及ぶときに作られたが、菊川のように大井川、金谷峠、中山峠など急所・難所が続く場合には特例として間の宿がおかれた。間の宿には旅人の宿泊厳禁とか料理の制限などいろいろ制約がかけられていた。ちなみに菊川宿では金谷宿の許可がないと、いかなる場合も旅人を宿泊させることはできなかった。
菊川の里前の広場の案内板脇に藤原宗行卿詩碑と日野俊基歌碑が並んで建っている。

前者は1221年の「承久3年の変」で、討幕計画に参画した藤原宗行卿が鎌倉へ護送される途中、宿泊した菊川宿で「昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊水西岸に宿りて命を失う」と詠んだ詩歌で、後者は1324年の正中元年の変で同じく罪で鎌倉へ護送されたとき菊川で先人宗行卿を思って「古もかかるためしを菊河の おなじ流れに身をやしづめん」と詠んだ句である。

菊川ののんびりとした町並みには、人影をみることができなかった。

町並みを抜けて菊川の支流に架かる四郡橋を渡って左に曲がって町道菊川神谷城線を横断し、石段からはじまる青木坂入口へと歩く。青木坂の入口は、旧東海道の難所として有名な「小夜の中山峠」の入口であり急な登り坂となる。この急な坂は峠の頂上にある久延寺(きゅうえんじ)まで延々と約1Km続く。尾根伝いの坂から眺める茶畑や山々の景色はとても素晴らしく疲れを癒してくれた。
たぶん茶の生産で生計を立てているのであろう、この急坂の途中途中に民家が点在している。
そしていつの間にか金谷町から掛川市に入って行く。坂道を登って約25分してようやく峠の頂上に建つ長延寺に辿り着き、隣の茶店「扇屋」で思わぬご褒美で喉を湿らすことができた。難所と言われた小夜の中山峠もここから以降は下り坂となり日坂宿へ向かうことになる。

 

今日のコースは 島田市博物館→大井川橋→東橋(八軒屋)→日本左衛門首塚(新金谷駅)→大代橋→佐塚本陣跡→柏屋本陣跡→金谷一里塚→長光寺
 →金谷坂→旧東海道石畳→石畳茶屋→鶏頭塚→庚申堂(三猿)→諏訪原城址→菊川坂→高麗橋→秋葉常夜灯→菊川の里会館・藤原宋行詩碑・日野俊基
 歌碑→青木坂→長延寺

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第24回 島田~金谷宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

 

Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・


難所で鈴鹿峠と並び称された小夜の中山峠の道中は金谷峠の石畳の道以外は、全て舗装されたごく交通量の少ない道が続き歩きやすいが、広重の絵ほどではないが、急坂である。
時折見せる一面の茶畑の美しい景観は疲れをとても癒してくれた。

小夜の中山は、小夜(さよ)または佐夜(さや)と書かれ、4Kmほどの街道には、さまざまな史跡や伝説が残されている区間であった。峠の道には、100から200mごとに古人の歌碑が立っており、しばし足を止め、詠みながら歩くと疲れを忘れる。

小夜の中山峠の頂上に来ると、右側に久延寺がある。久延寺は掛川城主の山内一豊が境内に茶室を設けて、関ヶ原戦に向かう家康を接待した場所として、また小夜中山の夜泣石伝説の寺として有名である。
山内一豊は秀吉の武将で6万石の掛川城主であったが秀吉没後、家康に組し、関ヶ原戦いでは家康軍に加わり功績を挙げた恩賞で、土佐24万石の大名になった武将である。境内には、家康が立ち寄った1600年(慶長5年)年に植えたという五葉松の大木《枯死し今はない》)と夜泣石(講師の説明:本物と思われる石は、国道1号線小夜の中山トンネル金谷側に置かれているとのこと)がある。
夜泣石伝説:江戸時代の滝沢馬琴の小説「石言遺響」や安藤広重の「佐夜の中山」にも画かれている有名な石で、伝説は多数ありその中の1つは「妊娠していたお石が菊川宿からの戻り、腹痛を起こして小夜の中山の急坂の途中にある丸石のところで休んでいた。そこへ通りかかった男が介抱しているうちに、お石がお金をもっていることに気づいてお石を殺害し、その金を持って逃げ去った。そのときのショックで子供が生まれたが、お石の魂が丸石に乗り移り夜毎に泣いた。里人はおそれ、その石を「夜泣石」と名づけたという。子供は音八と名づけられて久遠寺の和尚に飴で育てられ、立派な若者になった。その後その若者が歯のこぼれた刀から見事、母の仇討ちを果たすことになる。

久延寺から少し行くと右側に子育飴で有名な扇屋の茶店があり、ここでは子育て飴を売っている。

九延寺・観音堂 夜泣石 接待茶屋跡 扇屋 子育て飴

子育飴の由来(ネット検索によると):夜泣石伝説の一つで(諸説があるらしい)、小夜中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられてという。

扇屋の前の道路の反対側には「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」の西行の歌碑あり、その奥は小夜の中山公園である。
このあたりから道はゆるい下り坂になる。
250mほど行くと丁字路の左側に、江戸から56里目の小夜鹿一里塚石碑がある。さらに少し行くと同じ左側でちょっと奥まった小高い盛り土のところに、鎧塚石柱がある。1335年(建武2年)北条時行が鎌倉幕府の再興で兵をあげた「中先代の乱」で、時行の一族の名越太郎邦時が京へのぼる途中、この地で足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討死をした。頼国は名越邦時の武勇をたたえてここに塚をつくり供養したという。後世地元の人が掘ってみたところ、鎧は出てこなかったが鎧塚云々と書かれた丸石が発見されている。鎧塚からしばらく行くと右側に立つ椎の木の脇に小さなお堂の白山神社がある。神社の前にも東海道の道標がある。

西行歌碑 中山公園案内図 鎧塚 白山神社 馬頭観音

白山神社は、総本社は石川県にある「白山比め神社」で霊峰白山の山岳信仰として栄えている。白山神社から200mほど下ると左手に、「往来歩行人馬 為御祈祷建之」と刻まれた丸石の馬頭観音がある。この馬頭観音は、前述の子育て扇屋で出てきた藤原良政が、京から下向してきた折に乗ってきた愛馬を葬った所と伝えられている。さらに50mほど下ると、左に面して涼み松広場があり、昔峠を歩く旅人たちに木陰を提供していた大きな松があったところである。広場の奥には、「命なりわづかの笠の下涼み」と刻まれた芭蕉の句碑があり、この句にちなんで涼み松と呼ぶようになり、また周辺の地名も「涼み松」のと称されるようになったという。

茶の選定作業中 涼み松公園 芭蕉歌碑 妊婦の墓 夜泣石跡

涼み松広場前の道の反対側の茶畑の中に妊婦の墓がある。墓石には「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻まれている。さらに500mほど下ると右側に、峠の道の真ん中に鎮座する夜泣き石と旅人を描いた有名な「日坂・小夜の中山」の広重の絵碑がある。江戸時代は小夜の中山といえば夜泣き石というように有名であったということの証という。

広重の絵碑を見て、ふと今来た道を振り返る。茶畑が広がるゆるやかな坂道を過ぎて峠も終わりになり、沓掛の集落を過ぎると急カーブの下り坂となる。ここは二の曲りと呼び、その急勾配は東の青木坂とならんで小夜の中山峠を越える旅人を悩ませたところであったと案内にあった。
なお沓掛の地名は、峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え、古い沓を水に掛けて旅の安全を祈願するという慣習に因るといわれている。

二の曲りから200mほど下った所は日坂宿の入口に近く、日坂バイパス手前から日坂の町を眺められた。

峠を下り切り国道1号線を横断すると日坂宿の町並みの入口となり、そこには宿の案内板がある。

広重絵碑 二の曲案内図 二の曲急坂
日坂宿入口
屋号看板

国道1号線から100mほど歩くと右手に秋葉常夜燈がある。日坂宿はしばしば火災にあっているため秋葉信仰が盛んで、 ここ本陣入口の常夜燈は1856年(安政3年)に建立されたものである。

問屋場跡の案内板、さらに少し行くと右側に、扇屋本陣跡がある。 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいて、敷地は約350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物であった。しかし1852年(嘉永5年)の日坂宿の大火で全焼し再建後、明治3年に店を閉じて現在は広い空き地となっている。この先には脇本陣跡黒田屋の大きな板看板も見ることができ、日阪宿は現在も、その街みはよく保全されている。それぞれの住宅の玄関に掲げられた大きな表札には屋号が書かれている。


秋葉常夜灯(東側)
扇屋本陣跡 問屋場跡
脇本陣黒田屋跡
藤文

宿の街並みのはずれに来ると左側に、旅籠川坂屋の建物がある。たびたびの大火にあった日坂宿で数少ない江戸時代の面影を残す建物で、建築年は日坂宿大火1852年(嘉永5年)か、または安政の大地震1854年(安政元年)といわれている。精巧な木組と細かな細工を施した格子や欄間が特徴で、平成12年に修復された。上段の間があることから身分の高い武士などが宿泊した宿であるといわれている。一般公開をしているが、本日は閉まっていた。

川坂屋を出るとすぐ右に高札場が復元されている。高札場とは、幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に書いて掲げた場所のことで、ここは下木戸の高札場と呼ばれていた。

藤文案内板 川坂屋
秋葉常夜灯(西側)
高札場 下木戸跡

下木戸の跡案内板が隣に立っている、さらに約400m行くと1号線と合流して右折したT字路の正面に、事任八幡(ことのままはちまん)宮の本殿と拝殿がある。この境内には楠の大木と樹齢千年といわれる杉の巨木がある。
由緒案内によると、807年(大同2年)に坂上田村麻呂が東征の際、再興したと伝えられ、武家社会となって八幡宮信仰が栄えると、1062年(康平5年)に源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請して事任神社が八幡宮を併称するようになったという。古代から、必ず願いごとのままに叶うありがたき社、として朝廷をはじめ全国より崇敬されていたと、平安時代の「枕草子」にも記されている神社である。

事任神社境内
楠の大木
(長寿の願掛け)
鳥居から拝殿 本殿
樹齢千年の杉

今回のコースはここがゴール・・粋な計らいでコンビニに寄ってもらい、第二東名を走り、沼津SAでお土産を買うことができた。

 


コースは 長延寺→茶屋・扇屋→中山公園→小夜鹿一里塚→白山神社→馬頭観音→芭蕉句碑→妊婦の墓→広重の絵碑→二の曲り→秋葉常夜灯(東側)→
 扇屋本陣跡→問屋場跡→黒田脇本陣跡→旅籠川坂屋→秋葉常夜灯(西側)→高札場→下木戸跡→事任八幡宮



クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第24回 金谷~日坂宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

日坂小夜の中山
2012. 5.30 金谷~日阪宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。

江戸日本橋から日坂宿まで213.8Kkm、 金谷宿~日坂宿間 6.5Km

小夜の中山峠のゆるい下り坂は天気もよく(曇り空)快適であった。日坂宿は幕府直轄の交通・宿泊機能を中心とした宿場であった。宿はとても小さく、由比、鈴鹿の坂下に続く3番目に小さい宿で、集落がもつ年貢米収納の郷蔵ももてなく、また幕府の定める人馬継立規定の100人・100匹をそろえることもできないほどの山峡の小宿であった。日坂の町は下り勾配で、ゆるいカーブを画いて700mほど続く街並みの形態はいまでも変わらず、それぞれの民家の玄関先には「屋号」の看板がかかげられている。宿場の西端に位置する旅籠の川坂屋が復元され当時の面影を伝えている。
本陣:1軒、脇本陣:1軒1、旅籠:33軒

2012. 5.30 島田~金谷宿~日阪宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
金谷大井川遠岸