Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
日本橋から丸子(鞠子)宿まで180.2Km、府中宿〜丸子(鞠子)宿 5.6Km

丸子(鞠子)宿:丸子(鞠子)宿の歴史は古く、鎌倉後家人の手越家綱が奥州藤原氏を討伐した恩賞として駿河国麻利子村を賜り、そのとき鎌倉幕府に宿駅の開設を願いでたことから始まる。江戸時代には1497石の幕領となり、安倍川の川越を扱い、川越人足も多数いた。丸子橋近辺には昔から名物のとろろ汁を出す店が並び宇津ノ谷峠を越える、超えてきた旅人がここで休憩し、茶店は大いに賑わったとある。
本陣:1軒、脇本陣:2軒、旅籠24軒

東海道20回を歩き、雨は戸塚から藤沢の時の通り雨、中山道は15回歩いて鴻巣から熊谷の午後に降られた・・35回歩いて雨は半日の2回は恵まれすぎであろう。今回はとうとう一日雨に降られた。ものは考えよう・・カラフルな傘とポンチョ、レインスーツの花と歩るけると思えば、また・・楽しかな。
ちなみに関東地方の年平均降雨日数は100から110日余りです。単純計算で3日強で雨が降っているわけです。今のところ恵まれている訳です。
参加の皆さんは、それぞれしっかりと雨支度ができており安心・感心でした。当の本人は足元重点に仕度をしっかりとしたので、ほとんど濡れず快適に(負け惜しみではありません)歩けました。

静岡駅前でバスを降りる。駅前から両替町通りを入り、徳川幕府の代官屋敷で大政奉還後慶喜公が約20年間隠居生活を送ったところであり、その後、料亭として再建され、復旧された「浮月楼」の池を中心とした庭園を拝観、紅白の梅が池に映えていた。
昭和通りを横切り150m程の所に
徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺である宝台院がある。

西郷の局は、27歳より家康公に仕え「三方ヶ原の戦い」「設楽原の戦い」「小牧長久手の戦い」等、家康公が最も苦難にあった時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠の妻だったお方で、また、二代将軍徳川秀忠公、尾張の松平忠吉公の生母でもあると説明があった。

浮月楼庭園 浮月楼 お愛の方の墓 宝台院・本堂
重文・白本尊

宝台院本堂内陣は天井の高い本堂で、本尊の両脇には徳川家康公の旗印で使っていた「厭離穢土」「欣求浄土」の文字が並んでいます。本尊は白本尊と呼ばれ、芝増上寺の黒本尊と共に家康公の守り本尊となった阿弥陀如来立像(国・重要文化財)です。白本尊と呼ばれる由来は、金箔の下に白い胡粉が使われていたからと言われています。若き日の家康像として注目されている家康公の自画像(市・重要文化財)も宝物殿で見ることができた。庭には「キリシタン燈籠」が残されており「ジュリア」・「おたあ」の事が記されている。

慶喜公謹慎の地・碑
キリシタン灯篭
新門辰五郎縁の寺 静岡おでん横丁
札の辻址

浮月楼に向かう時から方向感覚を失っていた。曇り空だったので修正がきかず歩いていても???である。宝台院から「娘が奥女中として仕えていた事で、慶喜のお手がつき、慶喜の上洛にあたっては、愛妾の父として、200人の子分を連れて、慶喜の身辺警護にあたっていた」と言う新門辰五郎縁の「常光寺に立ち寄り、青葉通りに出る。この辺りに来るとやっと方向感覚が戻る。静岡おでん横町を横目で見ながら、正面に葵区役所が見える。
呉服町通りを一区画歩くと、前回ゴールの
札之辻址標柱」が歩道に立っている。ここが今日の街道歩きスタートである。この辺りには明治7年まで高札場がおかれ、札之辻と呼ばれていた。札之辻から七間町通りを呉服町、両替町、七間町、人宿町と懐かしい町名を歩いて、ファミリマートの交差点を右折して約200m行くと、由比正雪の生まれた梅屋町(キリスト協会あたり)の十字路で左折する。

宿場や城下町の入口の特徴である枡形の道を歩き、右手の広い大通り道と平行に南西へ新通りを200mほど歩き平成通りを右折して本通りに出る。交差点を渡り、秘儀に少し進むと歩道脇の植込みと菜の花に隠れるように「府中一里塚跡」の石碑が立っている。歩道側からは見逃してしまいそうである。
次の交差点を渡り、新通りに戻り、新通りを横断して約200mほど行った左側路地の奥に稲荷神社と「双街の碑由来」碑(内容は画像参照)がある。
元に戻り新通りを350mほど行くと弥勒交差点出でる。交番の脇に川会所跡の案内板があり、新町通りと本通りが合流し、その挟まれところは小さな弥勒公園となっている。
ここには安倍川顕彰碑・由比正雪公之墓址や「左丸子宿、右府中宿」の弥勒の東海道標識が立っている。

旧東海道(府中)
府中一里塚
稲荷神社(双街) 双街の由来・案内板 川会所址案内板

道の左側を通って行くと、赤茶の大きな暖簾にこじんまりとした、あべかわ餅元祖石部屋(せきべや)がある。ここで一服・・旅人気分を味わいながら熱いお茶と安倍川餅(餡ときな粉)をいただく。家へのお土産を一折・・もうゴールはしているであろう、川崎宿だけ日程が取れず、たまたま一緒に歩いた女の子の「安倍川餅が美味しかった」との言葉を思い出した。

うんちく:安倍川餅は、上流の金山に働いていた鉱夫が、金粉餅といって家康に献上したのが始まりといわれ、太田蜀山人も食したという。


安倍川顕彰の碑
由比正雪の墓址
石部屋さん
安倍川・石部屋 安倍川橋

石部屋のすぐ先の安倍川の手前に、安倍川の義夫の碑がある。1738年(元文3年)初秋のころ、紀州の漁夫が金150両の大金を持って安倍川を自分で渡った際、着物を脱ぐとき財布を落とした。それを人夫(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が拾い川を渡って旅人のあとを追いかけ、宇津の谷峠から引き返してきた旅人に無事手渡すことができた。しかし「拾ったものを落し主に返すのは当たり前のことだ」と言って旅人の謝礼を絶対に受け取らなかった。この正直な川越人夫の顕彰碑は昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志により建立された。そしてすぐ目の前には安倍川にかかる大きな鉄橋がある。

昔はこの橋のちょっと下流から川越をしていたが、明治7年に安水橋が出来、その後改築され現在鉄橋は大正12年に完成したものである。東海道には13の渡しがあり、安倍川もその一つであった。川幅は約650m(360間)ほどで、船渡しもあったが歩行渡しで知られていた。両岸にあった川会所で川札を買い、人夫に渡して肩車か蓮台で対岸に渡った。川会所の案内板には当時の渡し料金が記されてある。


安倍川義夫の碑
安倍川・河口方面 少将井神社 謡曲「千手」の像 佐渡・子育て地蔵
案内板

安倍川:静岡県境の安倍峠を源とし、藁科川と合流し駿河湾に注ぐ川である。この安倍川橋を渡り丸子宿へ向かうことになる。

橋の上から安倍川の下流を見ると、広い河原では砂利の採掘がおこなわれていた。雨の影響か水も濁っていた。橋を渡り200mほど行った右側の道を入るとその奥に、謡曲「千手」の像と少将井神社がある、歴史の中に祀られているものは悲しい話ばかり目立つようだ。旧東海道を800mほど進むと、亥豪セント合流する。200mほど歩くと道は分岐し、佐渡(さわたり)の信号で1号線と別れ左手の県道から丸子宿に入る。信号のすぐ先右側に「子の無かった夫婦の願いが叶い、その後たくさんの地蔵が奉納された「子育地蔵堂」が建っている。その道路を挟んだ向かい側の公民館の前に佐渡(さわたり)の手児(てご)万葉歌碑が立っている。

佐渡子育て地蔵堂 奉納された地蔵様 佐渡・万葉歌碑
手越の松
丸子宿案内板

400mほど行くと道路左側丁字路の脇に手越の松が一本立っている。この辺り、昔は松並木であったとの事。閑静な住宅街を歩いて丁字路から約500mの道端の右に、江戸から46里の「一りづかあと」と刻まれた丸子一里塚跡碑がある。

これより丸子宿「江戸方見付」の案内板を見ると、道路左側には「丸子下宿」案内板、右に丸子宿脇本陣跡碑(明治天皇小休止址)、問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡(明治天皇小休止址)、左側には「丸子上宿」案内板があり、この辺が宿の中心であったのであろう事が容易に想像できる。。

そのすぐ先にお七里役所跡碑がある。

手越の松並木案内板
一りづかあと・碑
見付跡案内板 丸子下宿 旧東海道(丸子)

江戸初期の寛文年間、紀州徳川頼宣は江戸屋敷と領国の間146里にわたって7里間隔の宿場に独自の諜報機関として中継ぎ役所を設けた。この役所を「紀州のお七役所」と呼び、5人1組の飛脚を配置した。これには健脚で剣道、弁舌に秀でた者が選ばれた。お七里飛脚の看板を持ち腰に刀、十手をさして徳川御三家の威光を示しながら往来した。普通便は8日、特急便は4日足らずで到着した。徳川頼宣は家康の第10子で、家康が亡くなって3年後に追われて紀州に国替えになったので、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いた。


脇本陣跡

問屋場跡

陣址

脇本陣跡
丸子上宿

さらに200mほど行くと右側には丸子橋、左側に山芋をすったとろろ飯で有名な丁子屋があり創業は1596年(慶長元年)で、この敷地には十返舎一九東海道中膝栗毛碑と「梅わかな 丸子の宿の とろろ汁」の芭蕉句碑(1814年、文化11年建)がある。
丸子宿入口から丁子屋まで歩行時間は23分あまり・・案内板が次から次へと現れ、レジメにあるように小さな宿場であることを実感。

この辺りまでが丸子宿となる。遅い昼食は丁子屋の隣の一松園での白みそ仕立ての「とろろ汁」であった。少々甘目ではあったが、のど越しよく美味しくいただけた。同じテーブルに座る者同士の和やかな話し声が聞こえた。
一松園の前の小さな祠には綺麗な形で残っている馬頭観音像(暗い被写体にズームを使ったための手ブレ=言い訳)を見ることができた。観世菩薩は変身自在で33にも身を変えて現れるという。この仏も化身されたひとつの姿であり、頭に馬をいただいているところからこの名がついている。
暖かい昼食と休憩の後は身支度を整えバス移動で吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)へ・・バスで5分程の距離ではあるが雨、休憩の後、風向きが変わり寒くなった時のバス移動はありがたい。


お七里役所跡
芭蕉句碑 丁子屋(丸子橋から) 丁子屋 馬頭観音

吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は丸子(まりこ)宿のはずれにある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺で、天柱山(てんちゅうざん)との号である。俗に吐月峰とよばれ、古くから月の名所、竹の寺として知られる。本尊は十一面観世音菩薩であり。1504年(永正1年)今川氏親(うじちか)によって創建され、連歌(れんが)師宗祇(そうぎ)の高弟である宗長が開山した。この寺はもと宗長の草庵(そうあん)で、京都銀閣寺を模した庭園は東山、天柱山、丸子富士を借景としたもので国の名勝・史跡に指定されている。境内には椿・槇、百日紅などの大木があり、京都から移植したという竹林の中に書院・茶室がある。寺宝に足利義政(あしかがよしまさ)から贈られた芦屋釜(あしやがま)別名(文福茶釜:ぶんぶくちゃがま))、後水尾(ごみずのお)天皇宸筆(しんぴつ)などがある。[住職さんの流れるような説明をまとめてみたが、全ては思い出せず、書ききれず・・]

吐月峰柴屋寺・山門 本堂・ご本尊 庭園 茶室・庭園 庭園

再びバスは狭い道をゆっくりと進み「誓願寺」へ・・正面には丸子城址が雲にかすみ頂上がわずかに望める。誓願寺は源頼朝の創建で戦火による焼失後に武田信玄が再建、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件を徳川家康に弁明した豊臣家の重臣、片桐且元の墓がある。また、5〜7月には「モリアオガエル」の産卵風景が見られることでも有名である。(C・T街道歩き・レジメより)

宗長の像 茶室 片桐且元の墓 モリアオガエル
産卵の池
案内(説明)板

さて、帰路の車中は快い午睡と目覚め後の根津講師の秘蔵DVD鑑賞のひと時である。幻の邪馬台国、ハングライダーでの津軽海峡横断飛行、太田蜀山人のビデオであった。幻の邪馬台国は特集番組で見た記憶がある。残念ながら太田蜀山人はタイムオーバーで次回持越しとなってしまった。街道歩きではよく出てくる名前である・・再上演を楽しみにしています。



今日のコースは JR静岡駅→浮月楼宝台院常光寺静岡おでん横丁)→札の辻→梅屋町→府中一里塚→双街神社→川会所跡→安倍川顕彰碑
  →由比正雪碑→石部屋→安倍川義夫碑→安倍川橋→少将井神社→子育地蔵・佐渡万葉歌碑→手越松並木→丸子一里塚→丸子宿(見付跡・問屋場跡・
  本陣跡(明治天皇小休止址)・脇本陣(明治天皇小休止址)・お七里役所跡→丁子屋→一松園(昼食)→
(バス移動)吐月峰柴屋寺→誓願寺

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第21回 府中〜丸子宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

2012. 3. 9 府中〜丸子(まりこ)宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 丸子名物茶店
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
餡ときな粉の安倍川餅
とろろ汁定食
丸子橋より吐月峰柴屋寺、
請願寺まではバス移動。