Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

舞阪宿:舞坂は古くから宿が置かれ、戦国期には今川氏の支配下ですでに伝馬が行われていた。
その後、遠州を支配した徳川家康は新居宿を重用し、浜名湖の今切渡船の運営権を舞阪宿には
認めず、新居宿の独占とした。そういうことが尾を引いて境界争いなどで両宿の争いがよくあっという。

舞阪宿入口には約700mに渡り大小340本の松並木が残っている。松並木の京都側には遠州七不思議と
言われる可愛らしく、太鼓を持った「波小僧像」がある。

舞阪宿の東側の入口には「見付跡の石垣」が残っている。ここは舞阪宿の東側の入口になり、1709年
(宝永6年)には既に地図に存在していたと古いものである。

本陣:2軒、脇本陣:1軒、旅籠:28軒

今回もたくさんの写真を撮ったのですが・・汗と湿気で濡れたカメラを拭う際に設定ボタンに触ってしまい「見づらい写真」となっています。
カメラ講座での格言:撮影前には必ず「設定のチェック」を!!

今日のスタートは「連尺交差点」そばにある「大手門跡」の案内板からである。交差点から150mほど先の右側の緩やかな坂を登ると。徳川家康が祀られている「五所神社・諏訪神社」である。ここの狛犬は虎であり、左側の虎の角は「角でなく髪の毛が逆立っている様を表して」いる。また、新しい知識を仕入れた。

朝の浜松城 前回のお土産「丸凧」 大手門跡案内板 大手門跡 五所神社

連尺町からの通りに戻ると、通りには「高札場跡」の案内板、その先には、本陣跡が多く、交差点から200mほどの右に「杉浦本陣跡」「川口本陣跡」の標示があり、反対側には(「佐藤本陣跡」)次の交差点(市内は地下道で横断)の左側には「梅谷本陣跡」の案内板がありこのあたりが宿場の中心地であったことが容易に窺える。「番町跡」の石碑のある成子町の交差点を右折、次の交差点の左側に「子育て地蔵」が安置されている。


杉浦本陣跡案内板

川口本陣跡案内板
梅屋本陣跡案内板
番町跡石碑
地蔵堂

国道257号線を道なりに西南へ進みJR旧東海道線・新幹線森田架道橋から西浅田北交差点を直進して、杉浦本陣から約2.5Kmのところに小さな川にかかる小さな「鎧橋」がある。平安時代(800~900年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦った、その後、この橋を「鎧橋」と名づけたという。

少し行くと、左側のガソリンスタンド脇、「八丁畷」と言われる場所に江戸から66里の「若林一里塚」の案内板がある。その先は三叉路になり、そこには「二つお堂」がある。京都に滞在していた奥州平泉の藤原秀衡が大病ということで、京都へ上る途中ここで秀衡死亡との誤報を聞いた愛妾が、その菩提を弔うために「北のお堂」を建てて没した。一方、京都の秀衡は病が回復し帰国の途中ここで、その話を聞き、愛妾へ感謝をこめて「南のお堂」を建てたという。
「北のお堂」の脇には「馬頭観音」「高札場跡碑」「秀衡の松」などがある。

鎧橋
若林一里塚跡
二つお堂(北) 二つお堂(南)
高札場跡

三叉路の右手の道を西へ2Kmほど行くと、全国に2万5千社もあると言われる「諏訪神社」ある。熊野神社、高札場跡があり、その先の交差点右側には「堀江領境界石の標示」があるはずだが・・工事用フェンスに囲われ、石碑は隙間から覗いての確認となった。その先にも「境界を示す杭」がある。
1705年(宝永2年)に、高松村は堀江領となったが、増楽村以東は浜松領であったため、領地の境界を示すために両村の境に境界石をおいた。西が堀江領で東が浜松領であった。


馬頭観音
諏訪神社
堀江境界石(木杭)

麦飯長者跡
高札場跡

さらに歩くと、右に「麦飯長者跡の標識」がある。昔、旅人に麦飯を喜捨(きしゃ:進んで金品を寄付・施捨すること:仏教用語)して「麦飯長者」と呼ばれていた「小野田五郎兵衛」という長者がいた。「麦飯長者跡」の先、右側奥には「日本最古の津波タワー(2012年4月25日読売新聞朝刊に掲載:街道歩きに参加のKさんの提供)」と言われる(裏山に)丘のある熊野神社がある。
ある時、神主の夢枕に「高い丘を作って村人を救え」と言う「不思議な夢」を見て、氏子と共に神社の裏に土を盛った。その後の安政の大地震の時に津波に襲われたが、ここの村人はこの裏山に逃げ、難を逃れ死者はでなかったと言う。

熊野神社 裏山(津波タワー)
新聞記事
立場跡 立場跡案内板

境界石から単調な道を約1Km歩くと、篠原の三叉路になる。コーナーにある旧東海道の標識に従い、右の狭い2車線の道を行く。

三叉路から100mほど行くと、左側に「立場跡碑」がある。この道には「秋葉山常夜燈」、「秋葉灯籠」が数多く次々と設置されいる。が・・どれも「鞘堂」と呼ばれる祠の中にあり、天竜川を渡ってからは、なぜか・・道の進行方向(京都に向かって)の右側に(偶然かもしれないが・・)あった。

神明社鳥居 神明社拝殿 一里塚跡 一里塚案内板 高札場跡

立場跡の先、右側には「神明社」がある。休憩の時に「神社、鳥居談義となったが、私の聞きかじりの「薀蓄」は的を得てはいませんでした。鳥居は「造り」ではなく「形」で分類するのが正しいようです。ここに鳥居の形を分類した資料(PDF)を添付します。
資料は9月のツアーで配布される予定です。
その隣には「篠原一里塚」案内板がある。戦火で全てを失ったとは言え、街道歩きにとって「一里塚」は何とか復興してもらいたい。一里塚から高札場跡、さや堂、稲荷神社、引佐山(いさやま)寺跡から馬郡(まごおり)交差点の先には、鹿の狛犬(?・・左雄、右雌と分かりやすい))の「春日神社」があり、ここまで来ると「舞阪の松並木」が間近に見えてくる。立場跡から約4Kmの所である。


鞘堂
引左山寺跡
鞘堂
春日神社 松並木(浜松側から)

舞坂町へ入るとすぐ右手にJR舞坂駅があり、その先の右側に「東海道舞坂標識」がある。前方には約700mにわたり340本の美しい「東海道舞阪松並木」が続く。北側(右側)の松の木に間には、十二支の石像が進行方向からそれぞれ子、牛、虎、・・・の順に並んでいる。南側(左側)の並木は東海道53次の各宿場の銅板が花崗岩に設置されている。

十二支の石碑 五十三次の石碑 東海道松並木 舞阪宿石碑 松並木

松並木の中ごろには「舞阪橋跡標示」がある。ここには江戸時代、舞坂宿で唯一の「舞坂橋」がかかっていた。

松並木の終わりの3角コーナーに可愛らしく、太鼓を持った、大きな「波小僧像」がある。むかし遠州灘で地引網にかかった真っ黒な小僧を漁師たちは気味悪がって殺そうとしたところ、小僧が「私は海の底に住む波小僧です。命だけは助けてください。その代わりご恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりするときは、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」といいました。そこで小僧を海に戻してやって以来、天気の変わる時、波の音がするようになった(遠州七不思議)と伝えられている。

舞阪ど根性松 松並木(舞阪側から) 波小僧像 松並木(舞阪側から) 見付石垣

さらに斜めに交差する国道1号線を横断すると両側に「見付跡の石垣」がある。ここは舞阪宿の東側の入口になり、大名が通行のときなどには六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持をあったところである。この石垣は1709(宝永6年)には既に地図に存在していたと古いものである。
今回はここがゴールである。

昼食後はバス移動で石垣が荒々しい「野面積み」の「浜松城」、見付ヶ原の戦いの「犀ヶ崖(さいががけ)古戦場跡」を講師の案内で訪れた。



今日のコースは 浜松城大手門跡(案内板)→五所神社・諏訪神社→高札場跡・本陣址(案内板)→番町跡石碑→地蔵堂→(東海道線・新幹線架橋)→
 鎧橋→若林一里塚→二つお堂(南・北)→諏訪神社→堀江領境界石→麦飯長者跡→熊野神社→立場跡→神明社→篠原一里塚跡→高札場跡→鞘堂→
 引左山寺跡→春日神社→舞阪松並木→波小僧像→見付石垣→バス移動(浜松城・浜松城公園→犀ヶ崖古戦場址)



クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第26回 見附~舞阪」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                                目次

2012. 7.11 浜松宿~舞阪    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
舞阪今切真景