鶴芝の碑からこのまま道なりで300m程行くと国道396号(東海道)に出る。国道を横切り旧道の入口に「間宿・本市場」の案内柱があり、その先を、少し行くと「本市場の一里塚」が左側にある。左側には富士製紙工場の煙突から白い水蒸気が黙々と昇っている。

足柄PAからの富士
鶴芝の碑

間の宿・案内碑

本市場一里塚
旧松永邸跡案内板

本町通り、大通の交差点を過ぎ、富士ホワイトホテルの脇には駿河の大地主であった「旧松永邸」の案内板がある。更に200m程歩き、小さな川を渡った左側に札の辻跡がある。ここは昔の高札場跡である。京都に向かって左側にあるが、右側にあったのを移動したとの講師の説明があった。(街道歩きを始めた頃に聞いたことでもある)その先には「猿彦大神」(道の神・道案内の神・旅人の神)も祀られている。
真っ直ぐ西へ向かって歩くと真正面に低い緑の山々が連なっているのが、好天に照らされて、目に入り眩しいほどである。400m程歩くと県道と合流する。合流地点には渡船場跡の案内中が建っている。すぐJR身延線の柚木駅のガードをくぐり、橋下交差点(五差路)を北西方向に進む。
100mちょっと先の交差点を左に曲がりすぐ先を右に入ると護国神社に上る参道の階段がある。
大変な難工事であった「雁堤(かりがねづつみ)」が完成の折に富士川を渡ってきた1000人目の巡礼が人柱(聞いた僧が巡礼後身代わりになった)と言う悲話が伝えられ「人柱供養碑」が建てられている。


札の辻・高札場跡
猿田彦大神 渡舟場跡 護国神社 人柱供養碑

雁堤は古郡重高・重政、重年の親子三代が新田開発と富士川治水のため築いた巨大な堤である。完成した1674年(延宝2年)まで50年以上もかかる難工事だっという。雁が連なって飛ぶ姿(上から見ると「ハ」の字の形)に似ているので雁堤と呼ばれるようになった。
富士を振り返りながら雁堤を歩いて行くと右にに曲がり再度県道と合流する。県道に出ると真正面に富士川にかかる緑色の鉄橋の手前に
松岡水(すい)神社がある。この神社は代官古郡孫太夫が堤防普請の成就を記念して創建したもので、富士川渡船の安全を祈願する人々が多く訪れたという。富士川は天下に聞こえた急流・暴れ川で水量も多く、徳川家康の交通政策で、渡るには船を利用するしかなかった。

雁堤碑と富士 雁堤からの富士 水(すい)神社
水神社・常夜灯
富士川橋

船着場は、東側は橋のある周辺に上、中、下船居の3ヶ所あって川瀬の状況で使い分けていた。西側は橋を渡った右手にある。
橋の途中から上流側を見ると、一杯に水面を広げた堰止からの白い流れが目に映えた。
橋を渡ってすぐ右手の土手を数十mほど行くと、側の渡船「上がり場」跡には、門倉了以(すみのくらりょうい)の碑と秋葉山常夜燈がある。

門倉了以は江戸初期の豪商で、幕府の命でこの碑の立つ岩淵川岸から甲州鰍沢河岸までの70kmに及ぶ富士川開削工事の大工事を行った人である。1614年(慶長19年)に水路が完成すると、甲斐岩淵蒲原湊の船による交易盛んになり、岩淵はその中継点として栄えた。常夜燈は「1820年(文政2年)に甲州通船と富士川渡船の安全を祈って建てられたもの」とかかれている。
道路を横断してちょっと戻って右の細い道に入り、小高い山の坂道を眼下に富士川を見ながら登っていく。ちょうど登りきった右手に光栄寺の門柱があり、左に曲がって秋葉山常夜燈を右に見ながら300mほど行くと、右に岩淵脇本陣跡でがある。ここには跡碑がなく、常盤邸の黒塀がその目印となる。正面左側端には常夜燈がある。ちなみにここは女優常磐貴子の実家でとの事。当日は休館だあったが我々のために特別に公開してくれた。
蜀山人が大蘇鉄を見に来たとの謂れもあるそうだが、蘇鉄はなく樹齢300年と言われる「槇」の大木が聳えていた。
家屋は綺麗に整備されて、時が止まっているような雰囲気も感じられた。案内してくれたお嫁さんも親切で嬉しかった。

富士川・富士川堰 渡船場跡・了以の碑 常磐家・門と黒塀 中庭と槇の木 家屋内部の梁

殆ど車が通らない、のどかな道を約200m行くと右側に長い参道の新豊院がある。薬医門形式(調べたが難しく判らない)と言われる年代を重ねたやん門をくぐると左側に「ぽっくり観音」、本堂ではご住職が待っていてくれ、寺の歴史、ご本尊、人の生き方を説法してくれた。
賑やかな笑いの中に「ぴんぴん・ころり」を思い出す。お坊さんの話・・難しいことを言っているのではないが、その生き方は凡人には難しい。

常磐家・上座
常磐家・常夜灯

常夜灯
新豊院山門 新豊院本堂

この道は高台にあり、平坦な道で陽気もよく、まさに街道旅に来ているという気分を味わいながら。さらに300m程行くと道は右に90度曲がり、コーナーには江戸より37里の当時のままの形で残されていると言われる岩淵の一里塚がある。ここの榎はとても見事な枝振りで右側は江戸時代から、左側は二代目いうことである。

岩淵一里塚 一里塚の碑
常夜灯

常夜灯

明治天皇御駐輦址

一里塚を右に曲がり、ゆるい坂道をりしばらく行くと今度は左に曲がり道なりに歩いて行くと、左右に常夜燈がある。この先も含めて常夜燈の多い町であり、よくみると秋葉山常夜燈と単なる常夜燈がある。何故2種類あるのか不明(講師に聞くのを忘れた・・)、秋葉山常夜燈は火事の神様として信仰のある燈で、この地方に非常に多いと聞いた。

さらに行くと三叉路があり、小永井紙工所のところを右に曲がり下って行くと東名高速道路のガード下をくぐる。道は大きな野田山不動明王の石碑のところで分岐しているが、左が旧東海道でさらに下り坂を歩いて行く。

右に常夜燈、宇多利神社を見ながら歩き、新幹線のガード下をくぐり、200mほど歩くと、山道のような感じで登り勾配が始まる。
そのまま登って行くと左側下方に東名高速道路が見えてくる。約200m東名高速度道路に沿った道を登りきったところで、左に曲る新坂橋跨道橋
を渡り東名高速を横断すると、ここから蒲原町となる。

ここから道なりに遠くに駿河湾を見ながら500mほど下って国道を少し戻ると義経が欧州への途上、蒲原で病に倒れ、恋しい浄瑠璃姫に便りを書く時に使った硯の水をここの清水を使ったと言われている「義経硯水の碑」がある。街道に戻り、少し歩くと、道の左側に江戸日本橋から38里の「蒲原一里塚跡碑」がある。さらに歩くと右手に北条早雲の孫である「北条新三郎の墓」入口がある。少し歩いた諏訪神社の脇に蒲原宿の東木戸跡の石柱と常夜燈がある。

義経硯水の碑 蒲原一里塚 北条新三郎の墓
東木戸跡石碑

宿内安全・常夜灯

江戸時代、宿場の入口には見附や木戸と呼ばれるものがあり、蒲原宿には木戸が設置されていて、東の入口を東木戸と呼ばれていた。
木戸と木戸の間のことを木戸内という。また東木戸跡に残っている常夜燈は1831年(文政13年)に作られたと記されている。

この道筋には旧家が多く残っていて、八坂神社の鳥居の脇にある「元佐野屋」という商家のなまこ壁と塗り家造りもその一つである。壁は塗壁で、町家に多く見られ「このような町家を塗り家造りという」と案内板にある。

東木戸跡から約5分のところに小さな川にかかる橋があり、「夜之雪碑」の案内板があり、そこを左に曲がって数10m行くと公園の片隅に蒲原夜之雪の記念碑がある。蒲原夜之雪の絵は、歌川広重が1832年(天保3年)に京へ上った折、この地で描いたもので東海道53次シリーズの中で最高傑作といわれている。

昭和35年当該絵が国際文通週間の切手になったことを記念して、広重が描いた場所に近いこの地に碑を建てたものである。


問屋・利左エ門蔵
元佐野屋・なまこ壁 八坂神社 夜之雪の碑 旅籠・和泉屋跡
(現鈴木家)

橋から数分歩いた右側には旅籠・和泉屋(現鈴木家)が昔の佇まいを残している。閉店時間にも拘らず屋敷兼店舗を解放してくれた。
つるし雛の下がる一階、急な階段をのぼると、タイムスリップしたような部屋には旅籠当時の当時の貴重な食器・漆器、機織機を見ることもできた。

平岡(蒲原)本陣跡 手造りガラスと
総檜の家

御殿通石碑
蔀戸(しとみど)のある
志田家

西木戸・茄子の辻跡

二階の窓からは斜向かいの黒塀の蒲原本陣跡が望めるが、昔はひざまずいて見たそうだ。黒塀の蒲原本陣跡には土蔵などは今でも残っているという。鬼瓦には本陣であることを示す「本」の文字が入っている。

少し歩くと左側に御殿場道跡の石柱があり、この辺から御殿道が始まる。かってこの辺りに徳川家康が、武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために建てた蒲原御殿があった。その後徳川将軍が東海道を往来するたびに、整備され規模が拡大し、相当広い範囲になったが正確な場所は判らないと説明があった。そしてここから下る道を御殿道というようになった。
御殿通りを真っ直ぐ西へ行くと丁字路になり、左に曲がると県道396号線と合流する。その左のコーナーに蒲原宿西木戸跡石柱と茄子屋の辻がある。この茄子屋の辻は乱闘事件があったことで有名なところである。1653年(承応2年)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が江戸へ行く途中、興津川付近で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍に触れたことでトラブルになり、辱めを受けた。大久保はその場ではこらえたが茄子屋辻で行列を待ち伏せして、70人近くの薩摩藩侍を討って屈辱を晴らした。しかし自らも傷を負い力尽きて討たれてしまった。

ここで今日のゴール・・一日中見えていた富士山も濃い青に染まっていた。



今日のコースは 鶴芝の碑→間の宿→本市場一里塚→旧松永邸跡→渡船場跡碑→護国神社・人柱供養碑→雁堤・雁堤公園→水神社→富士川・富士橋→
  渡船場跡→中之郷→常夜灯→常磐邸(岩淵脇本陣)→新豊院→岩淵の一里塚→常夜灯→義経硯水の碑→蒲原一里塚→東木戸跡→問屋里左衛門跡→
  →元元佐野屋→八坂神社→夜之雪の碑→旅籠・和泉屋跡→平岡本陣跡→総檜の家→御殿通石碑→蔀戸・志田家→西木戸・茄子の辻跡

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第17回 富士〜蒲原宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2012. 1.13 富士〜蒲原宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
富士から蒲原宿へ  江戸日本橋から蒲原宿まで143km
蒲原宿:江戸日本橋から15番目の宿。蒲原宿は富士川と駿河湾による
水害と闘ってきた町で、当初宿は現在のJR東海道線の南側にあったが、
1699年(元禄12年)8月5日の台風による大津波では宿の人と旅人
あわせて60人も流されるという大被害を受け、山側の現在地に移
された。
富士川の川止めでは大いに賑わった。また産業としては製塩が
盛んであった。

本陣:1軒、脇本陣:3軒、旅籠:42軒
前回から年末年始を経て約1カ月
ぶりの「街道歩き」でした。

街道歩きの仲間達も固定してきて
講師と共に和気藹々と楽しさも増し
てきている。

東名に入ると目の前に富士山が・・
足柄のパーキングエリアではひときは美しい富士を見ることができた。
前回ゴールの鶴芝の碑では石碑に

まれた「鶴」を再確認。
富士を背に街道歩きが始まった。