Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
「ドタキャンで皆が病気かなと心配していたよ・・仲間っていいね・・」このコースでの根津先生との最初の会話でした。
ご心配かけましたが、元気で(痛めていた足の爪のトラブルがありましたが・・)小夜の中山峠を歩いてきました。
宿では皆さんと飲み放題で盛り上がりました。次回も同じ宿・・楽しみ(街道歩きがメインです・・)にしています。

江戸日本橋から島田宿へ203.4Km、 藤枝宿~島田宿間8.7Km

 

この区間は大井川の川越遺跡がメインである。昭和45年から57年にかけて復元された国指定史蹟の島田宿大井川川越遺跡の街並み、大井川堤防近くにある島田市博物館には、江戸時代の大井川、島田宿、川越しの様子をとてもわかりやすく展示されていて、当時の様子を窺い知ることができた。

島田宿:他の多くの宿場と同じ1601年(慶長6年)に宿場の指定を受けた。1604年(慶長9年)に大井川の大氾濫により宿が流出し北へ移ったが、1616年(元和元年)から元の地に戻り、護岸工事も進められた。宿は川越で賑わい、1696年(元禄9年)に川越制度が確率してからは旅人も安心して川越ができるようになった。大井川の蓮台越は今でも伝統行事として行われている。また大井神社の3年に一度の行事である、帯祭りは全国の3奇祭の一つに数えられている。
本陣:3軒、脇本陣:0軒、旅籠:48軒

前回のゴール(都合で不参加)であった千貫石付近でバスを降りる。道の反対側には瀬戸の染飯版木の碑がある。染飯茶屋から、明治7年に創立された「育成舎」の碑、少ないが風情を残している松並木を眺め、街道の左に見えるJR東海道本線沿いに歩く、田中藩領傍示石、造酒屋「喜久醉」、瀬戸橋付近にあった立場跡の説明を聞きながら1.5Kmほど歩くと左の道端に江戸から51里の上青島一里塚跡碑がある。

その先1.8Kmほど行くと1号線に合流し、西へ進むと島田市の標識がある。藤枝市から島田市へ入り島田宿へとかう。島田市に入り、JR東海道本線沿に国道1号線をほぼ西へ歩き、道路左側には旅籠であった「魚一」の大きな暖簾が見える。JR六合駅前(八幡神社境内で昼食)で北へ一部迂回してさらに進み大井川へ流れる大津谷川にかかる栃山橋を渡る。

お仮屋町に入ると1号線と分れて左手の道を直進して島田市境界から約3.5Kmのところで繁華街となる。その本通り商店街の入口手前、左側の民家の塀に升形跡(宿東入口)の案内板がある。ここから島田宿となる。商店街を進んで行くと、右側歩道に江戸から52里の島田宿一里塚跡碑がある。

さらにその先の左歩道には、刀のマークが入った「刀匠島田顕彰碑」がある。室町時代初期、島田に「助宗」「義助」という刀鍛冶がいて、この一門は代々同名を踏襲して明治に至るまで高い評価を得ていた。昭和61年に義助屋敷跡付近に顕彰碑を建立した。
すぐ隣には問屋場跡の碑、道路反対側には本陣跡の石碑が並ぶ、本通りを進み2丁目交差点角の島田信用金庫の前に芭蕉句碑がある。

本通り2丁目交差点を左に行くと突き当たりのJR島田駅横には宗長庵趾碑がある。ここは元禄年間(1688~1704)に島田宿の俳人塚本如舟が、宗長を慕い宗長庵を営み、雅人たちと諷詠を楽しんでいたところで、元禄7年に松尾芭蕉も訪れている。石碑は3基建立されていて、右から順に次の通り。


 宗長句碑 : 遠江国、国の山ちかき所の千句にこゑやけふはつ蔵山のほととぎす
 芭蕉翁を慕う漢文碑芭蕉さみだれ古碑(断碑) : (さみ)たれの(空)吹きおとせ 大井川
 連歌師宗長 : 1448年(文安5年)島田に生まれ、宗祇(全国に連歌を広めた室町時代の後期の人)に師事し連歌を学び、宗祇没後は連歌界の
            第一人者として活躍した人。


JR島で駅では北の空が黒い雲に覆われ雷鳴が聞こえ、黒い雲が時折光る・・

旧東海道は直進し3つ目の交差点で右折して大井神社に立ち寄る。曲がるとすぐ左手に背の高い大井神社立柱がある。そこの鳥居から入ると奥まったところに本殿が見える。本殿への途中に、この地に遷座した年を示す元禄2年と刻まれた大井神社元禄の社号標がある。

大井神社:度重なる大井川氾濫による災害で悩まされた里人が、大井川の水神を祀って創建した神社で、何度もの遷宮を繰り返したあと島田宿が東海道53次の宿と固まった元2年に、当地に遷宮した。島田宿の氏神としてだけではなく、公家、大名、旅人からも大井川川越えの安全を祈願して深く信仰された。 境内には、約280年前の江戸時代正徳3年に神輿が渡るために造られた石の太鼓橋、使用した帯を供養して納める帯塚、またきれいな庭園は見応えがある。
帯祭り(島田大祭):元禄8年から始まった大井神社の神事で、3年に一度10月中旬の3日間行われる。島田へ嫁いだ女性が氏子になった報告と安産祈願で大井神社に詣でるときに、晴れ着で町内を披露して歩いたのが始まりで、やがて男たちが代理で嫁入り道具の帯を飾って練り歩くものになった。

神社を出て少し行くと川越の時を知らせた「時の鐘」のある瀟洒な山門の大善寺がある。参拝の折には、ご住職さんが快く説明をしてくれた。団体客が迷惑がられるこの時代にありがたいことである。信号を渡り300mほど行くと旧家・上段の間のある塚本家がある。道なりに西へ進み、本通り1丁目から向島町に入り東海パルプ工場の前で道が分岐するので左手へ行き、神社から約1Kmのところで、国指定史蹟の島田宿大井川川越遺跡の街並みに入る。川越遺跡は昭和45年から57年にかけて現在地に復元されたもので、建物は普通の民家と混在しているが昔の雰囲気を感じさせる。

信号を渡り300mほど行くと旧家・上段の間のある塚本家がある。道なりに西へ進み、本通り1丁目から向島町に入り東海パルプ工場の前で道が分岐するので左手へ行き、神社から約1Kmのところで、国指定史蹟の島田宿大井川川越遺跡の街並みに入る。川越遺跡は昭和45年から57年にかけて現在地に復元されたもので、建物は普通の民家と混在しているが昔の雰囲気を感じさせる。

大井川川越制度:「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と称された東海道最大の難所は、実際は川幅が広く深みも少なく宿駅制度制定以前は各人が浅瀬を選んで渡っていた。また川越賃も定まっていなかったので、人足はわざと深みに入り転んだりして法外な渡し賃を取ったりしていた。こういう状態を解消するために、1696年(元禄9年)に川越制度を確率し、川庄屋が置かれた。川越の方法は、川会所で川札を買い、川越人足にこれを渡して、肩車、連台などで川を越すものであった。
川札の値段は、毎朝水の深さと川幅を計って定めた。大井川の常水は帯通約76cm(2尺5寸)であった。

値段(寛政年間:1文を30円換算) 
 股通 1440円(48文)  川越制度の確率後は法外な料金を取られることもなく、川越人足には平等に仕事・労賃が割り振られ、
 対岸の金谷宿との協定も作られた。
 また、事故などによる保証制度も作られた。

 島田市博物館にはこの川越制度が「パネル」で分かり易く説明されていた。   島田市博物館HP
 帯下通  1560円(52文) 
 帯上通  2040円(68文) 
 乳通  2340円(78文) 
 脇通 2820円(94文) 

川の水深が約136cm(4尺5寸)を越えると、川庄屋の権限で川札発行が停止され、川留となった。この川留は年間約50日もあり、最長で28日も記録したこともあり、余分な出費をさせ旅人を困らせた。川越人足は当初、島田と対岸の金谷に各350名と定められていたが、その後650名まで膨らんだと資料にあった。
大井川川越遺跡には、川越業務を管理運営する川会所、人足が待機する番宿、人足頭が会合に使った立会い宿、人足が川札を賃金に替えた札場などの建物が復元されている。

街並みの中ほどの右に「関川庵・八百屋お七の恋人吉三郎の墓」と書かれた標識があり、小路に入って行くと確かに吉三郎墓(吉三地蔵)がある。何故こんなところに「八百屋お七」が関係しているのかと、正直不思議であったが・・説明によると、吉三は「お七」が処刑されたあと、僧となり遍歴するうちに島田で没し、哀れに思った地元の人の手により、ここに葬られたという。

町並みのはずれの右側に復元された川会所があり、降り出した雨に雨宿りをした建物の中には当時の様子を見せる役人の人形と蓮台が展示されている。入口には「馬方はしらじ時雨の大井川」の芭蕉句碑がある。その先の左に川越しの事故で亡くなった人々を供養するため建立され重枠稲荷神社の鳥居がある。その先には、増水した川の水をせき止めた堰跡の石垣が一部残っている。

先に進むと朝顔の松公園で、朝顔の松がある。盲目の娘、朝顔が川留めのため恋人に会えず、身を投げたが助けられる。その時、奇跡的に目が見えるようになり、最初に見たのがこの松と伝えられている。現在の松は4代目になるという。

元へ戻り、大井川に向かって右側に島田市博物館がある。江戸時代後期の大井川、島田宿、川越えの様子・料金、使われた蓮台、帯祭りの等身大人形、島田髷などがとてもわかりやすくコンパクトに展示されている。東海道を歩く者にとっては、一見の価値は十分にある。 

直進して堤防に上ると、大井川が見えるが現在は上にダムが建設され水量は少なく江戸時代の様子は思い起こせない。対岸の金谷宿へは右手の遠くに見える大井川橋を渡って迂回して行く(明日のコース)ことになる。

東海道とは直接関係ないが、大井川橋から下流に約4kmにある、ギネスブックに載っている蓬莱橋(ほうらいばし)という木造の橋を渡ることが出来た。JR島田駅から南東へ約1.5Km行くと、大井川にかかる長い木造の橋であるが、博物館から約5分のバス移動・・ツアーの良いところである。
1869年(明治2年)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちが大井川の対岸の牧之原を開拓してお茶作りは始めた。筆舌に表せない苦労の末、お茶栽培での生活もできるようになり、島田方面へ生活用品を買いに来るようになった。島田の住人も対岸に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟でしか渡れず非常に危険なことであった。そこで開墾人の願いにより、1879年(明治12年)1月13日に蓬莱橋が完成した。しかし木造のため大井川の増水でたびたび被害を受けたことから、1965年(昭和40年)に橋脚をコンクリートに変え、今日に至っている。


全長897.422m、通行巾2.7m(ネットで確認)で平成9年12月「世界一長い木造歩道橋」としてギネスに認定された。島田側の堤防から、金谷側の展望台からの眺望は素晴らしく雄大であり、橋の板の狭い隙間からは下の川水が見え、橋の造り、構造も垣間見ることが出来た。


今日のコースは (千貫堤・染飯茶屋碑)→育成舎→松並木→田中藩領傍示石蹟→上青島一里塚→JR六郷駅→升形跡(東側)→島田一里塚→
  刀匠島田顕彰碑・芭蕉句碑→升形跡(西側)大井神社→大善寺→JR島田駅前・宗長庵跡碑→川庄屋→大井川川越遺跡→関川庵→川会所・芭蕉
  句碑→大井川堰跡→朝顔の松→島田市博物館→(蓬莱橋)

 

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第24回 藤枝宿~島田宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師 

2012. 5.29 藤枝~島田宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 嶋田大井川駿岸