この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

江戸日本橋から藤枝宿まで194.7Km、岡部宿~藤枝宿間 6.7Km

藤枝宿:藤枝宿は田中城の城下町でもあったが、宿場町と城下町の関係がうまく機能し、例えば宿内の橋の整備や本陣の改築、畳替えなどは藩の費用で行われていたため、藩主と住人の関係は良好であった。宿の西にある
瀬戸川の川越の役務は藤枝宿で行っていたが一年を通じて殆ど水がなく、出水時だけの川越となっていた。
交通の面では、田沼意次の所領相良に通じる田沼街道、高根白山神社への参道高根街道、瀬戸谷街道
などの要衝であった。

本陣:2軒、脇本陣:無、旅籠:37軒

2012. 4.13 岡部~藤枝宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 藤枝人馬継立

五智如来像前の公園からスターとすると松並木が見える。本数は少ないが趣はある。藤枝バイパスの手前に「岡部宿(西側)」の石碑と灯篭が並んでいる。ガード下の先には「岩村領傍示杭」「油街途(あぶらがいと)」「岩村藩横内陣屋」「川会所」跡の案内杭があるが、ペンキ塗りの杭では信頼も薄い・・横内の町の民家には、それぞれ屋号の木札が架かり、街道の風情を感じた。


岡部の松並木

岡部宿の碑

岩村領傍示杭
油街道追分
岩村藩陣屋跡Hへ

川会所跡

朝比奈川にかかる横内橋を渡り、約1Km行くと1号線と81号線との交差点に出る。ここには西側の傍示杭が建っている。

岩村領傍示杭
田中藩傍示石碑

鬼島一里塚
御成街道
道標

常夜灯

旧東海道は1号線にかかる仮宿歩道橋を渡って左に入る。 法の橋を渡り、葉梨川沿いに歩いて静岡家具工業団地前で再度1号線に出てからすぐまた左の道に入り、歩道橋から約600mの民家の前に、江戸から49里の「鬼島一里塚跡標識」があるが、これも取って付けたようで・・少し行き葉梨川にかかる八幡橋を渡ると道標があり、左側は家康が田中城に行くために使った「御成街道」である。葉梨川沿いに旧東海道を500mほど行くと右手に水守の須賀神社のご神木のクスノキがある。樹齢約500年で根廻り15.2m、樹高23.7m、枝張りは東西21.2m南北が27.9mの圧倒されるような巨木(数値は昭和33年に県指定天然記念物に指定された時のもの)で枝ぶりも見事である。

須賀神社
須賀神社・大楠

番所跡
左車休憩寺
(成田山)

ボケよけの像

田中城本丸跡

道なりに500mほど行き1号線を横断すると本町4丁目になり、ここから藤枝宿に入る。さらに進むと道端に「東海道藤枝宿左車町」の標識があり、左車山休息寺(現在は成田山)があり、その裏手には、壊れた車輪を埋めたと言われる「左車(さぐるま)神社がある。左車町の地名は、鎌倉幕府の六代将軍宗尊親王(1242~1274年)が京都から鎌倉へ下る際、乗っていた車の左車輪が折れてしまい、ここに埋めたことから名付けられたという。

田中城址 茶室 庭園
当時の着物

隅櫓
穀物倉庫

左車休息寺からはバス移動で「田中城址へ行く。城址のほとんどは残っていないが、至る所に旧跡の案内板が立っている。隅櫓に登り、内部の展示物の見学と
周辺を眺める。綺麗に整備されている。

藤枝の街並 白子由来の碑 白子由来の碑 連正寺 連正寺・参道
常夜灯

本町4丁目から3丁目と商店街を通って行くと、本町交差点の手前の2丁目角の小川眼科医院入口に、白子由来記碑(碑と言っても、天幕に書かれたものと、幟旗のような物である)がある。1582年(天正10年)の本能寺の変で、堺にいた徳川家康は追ってから逃れて伊賀越えで伊勢に入った。そこで野武士の襲撃にあったが伊勢白子の住人小川孫三に助けられて無事脱出して駿府に戻る。1586年(天正14年)8月14日に、孫三はその賞として家康から白子の土地と諸役免除のご朱印をもらい、この地を白子町と称してここに居住した。


久遠の松
正定寺 下本陣跡 上本陣跡
上伝馬町
大慶寺

さらに進み藤枝4丁目で左の小道を入ったところに、久遠の松で有名な大慶寺がある。久遠の松は鎌倉時代の1253年(建長5年)京都比叡山に遊学された日蓮がこの地に立ち寄り、記念にお手植えしたという黒松で、樹齢約750年、高さ約25、根元の周囲約7mという全国でも珍しい大木で、県指定天然記念物となっている。なお庫裡は、1788年(天明8年)の田沼意次の相良城の御殿を移築したものである。続いて藤枝2丁目に入ると道の右側の、上伝馬交番脇の小道を入ったところに、本願の松で有名な正定寺がある。本願の松は、1730年(享保15年)正定寺の弁財天に信仰が篤かった田中城主土肥丹後守頼稔が、大阪城代に登用された報恩として寄進したとされ、傘型に枝張りした美しい姿が印象的である。 街道へ戻るとすぐ前には、瀬戸川にかかる勝草橋が見え、ここで宿は終わりとなる。

本願の松 瀬戸川
勝草橋
志太一里塚  
田中藩傍示石
六地蔵堂

勝草橋から眺めた瀬戸川の広い河原を蛇行した姿は美しかった。勝草橋を渡ると公園の前の柵の中に「志太一里塚石碑」と「秋葉常夜灯」がのこされている。「田中藩領防示石碑」「古道東海道石碑」と道なりに南西へ進むと、約1Km行ったところで1号線を斜めに横断する。そこから216号線を横断してさらに1Kmほど行くと瀬戸新屋となり、十字路の左側に六地蔵堂がある。鏡ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺二世静照上人が修法で退治し、その時に鏡池堂が建てられた。六地蔵尊は智証大師の作とされ、高さ30cmほどで金色に彩色された木仏であるという。また鏡池堂の額は渡辺崋山が書いたものと伝えられている。現在の堂は昭和33年に昔の形を残して建替えられたもの。
なお六地蔵は、「六道地蔵」と言って六道四生をさまよう人々を救出する役目を担ってくれる菩薩のことで、  
  六道とは 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天  (仏になれない生命)
  四生とは 胎生・卵生・濕生・化生       (発生形態の生物) である。
その先100mほど行くと、左に東海道追分標識が立っている。瀬戸新屋や水上は池・湿地が多く、中世の古東海道はこれを避けるためこの碑から南(左)に大きく迂回していた。湿地の開拓が進んで瀬戸新屋を通るようになってからの旧東海道と古東海道の分岐点を、追分と呼んだ。


古東海道の碑

東海道追分
染飯伝承館

染飯茶屋跡

瀬戸の染飯版木跡

松並木(茶屋跡から)

この先に小規模だが背の高い松並木が続く。さらに500mほど行き、左の道に入ると、「くちなし」の生け垣に囲まれた「染井伝承館」があり休憩を兼ねて説明を聞く。元の道に戻り街道に出ると、道の左に染飯茶屋蹟碑がある。瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、1582年(天正10)年の「信長公記」にその名が記されている。そして江戸時代終わりまで現在の茶店蹟で売られていた。染飯とは強飯(こわめし)をくちなしで染めて薄く小判型にしたもので、くちなしは足腰が強くなるということで旅人に好評であった。

道の反対側には瀬戸の染飯版木の碑がある。染飯を売る時の包み紙に押した版木は市の指定文化財となって石野家に残っている。


今日のコースは (岡部支所)五智如来像横内橋仮宿橋鬼宿一里塚跡→八幡橋→須賀神社→左車休憩寺(成田山)田中城址白子由来記念碑→常夜灯
 大慶寺(久遠の松)正定寺勝草橋(瀬戸川)志太一里塚→瀬戸新屋六地蔵堂東海道追分標識瀬戸新屋松並木→染井伝承館→染飯茶屋碑


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第23回 岡部~藤枝宿」 街道案内人 小暮中和 歴史講師