Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

江戸日本橋から府中宿まで174.6Km 江尻宿から府中宿まで10.5Km

府中宿:現在の静岡市で駿河国の政治の中心であったので府中といい、駿河の府中であることから駿府ともいった。古代から政治の中心で「安倍の市」以来の宿場町、さらに浅間神社の門前町、今川氏以来の城下町であった。徳川家康が大御所政治を執り仕切っていた所もあった。
本陣:2軒、脇本陣:3軒、旅籠:50軒    

第20回のスタートは、草薙1丁目と3丁目の境界の道路をまたぐ草薙神社大鳥居である。草薙神社への往復はバスで・・草薙神社は、草薙の剣で有名な日本武尊を御祭神とする神社で、鳥居から約1.2Kmのところにある。
草薙:蝦夷平定に向かった日本武尊が、この地で逆賊の放った炎に囲まれた時、あまのむらくもの剣を抜き、遠かたや、しけきかもと、をやい鎌のと唱へて、燃える草を薙ぎ払い危機を脱したという。それにちなみこの地は草薙と呼ばれ、あまのむらくもの剣は草薙の剣といわれるようになった。その日で焼けた、焼野原一帯を焼津と呼ぶようになったと言う。(境内の画像はこちら
大鳥居の先約100mの静岡鉄道草薙駅前の交差点を左折し、最初の十字路を右折して西へ進むと、清水市と静岡市の境界となる。ここからは府中宿へ向かうことになる。住宅街の中に茶畑が点在する・・「
やぶを切り開いた茶園の北側に植えた茶樹から選抜したことで、やぶきたの名前が付けられたと言われる」との講師の説明があった。静岡がお茶の産地であることを思い起こした。


草薙神社武・尊像
草薙神社・本堂 龍星 ご親睦 茶畑

十字路から500mほど行くと右側に「閻魔寺・閻魔坂」の案内板が建っている、寺の址はない。斜向かいには立ち姿の「達磨像が道路を睨んでいる。
「立ち姿の達磨さんは珍しい」と説明がある・・同じような達磨さんをどこかで見た覚えがあるが・・いまだ思い出せない。
脇の路地の先に東光寺の山門が見える。境内のいたるところに陶器の動物、石像がある。中国から贈られたと言う「再見(サイチェン)蛙が水に打たれていた。山門右側にある「典座教訓碑」前の禅師と僧の像はリアルであった。(東光寺の石仏たち

閻魔寺・閻魔坂案内板
達磨像
東光寺・山門 再見(サイチェン)蛙
秋庭山常夜灯

閻魔坂を下り、東名高速のガードをくぐり、400mほど行くと静岡県草薙総合運動場(草薙球場)の前に出る。入口前には庚申塔が並んでいる。球場正面には、日米野球で対峙する沢村栄治とベーブルースの像がある。球場を出て右折して交差点を直進し、初めの分岐を左折して進むとJR東海道本線の線路脇に御影石の「旧東海道記念碑とその由来碑」が建っている。現在は線路で分断され通行できないので、右手の地下道を通って(当然の警笛にビックリするとなんと車も通るのである:車両通行可である)線路を横断し高架下を潜って道なりに進み、後久橋を渡ると、左江尻宿、右府中宿の古庄の東海道道標がある。
道標から南西へ500mほど行き1号線と合流して進み、長沼交差点で右折してすぐ左折して住宅地に入ると、左の民家の脇と電柱に挟まれ「江戸から44里の長沼の一里塚跡碑」がある。

庚申塔群 草薙球場
沢村vsベーブ
旧東海道記念碑 長沼一里塚址碑
(電柱脇にひっそりと)

一里塚を過ぎたころから、道は静岡鉄道線に沿い約700m行くと1号線に出る。旧東海道は1号線を横切りその先のJR東海道本線を横断することになるが、現在は行き止まりとなっているので、1号線と合流して進む。

静鉄柚木駅の脇の踏切を渡ると正面に護国神社の大きな鳥居がある。灯篭の並ぶ参道は好きな被写体のひとつである。境内右に元歩兵第34連隊生存者一同献木の蝋梅があると聞いていたが、見つけられなかった。戌辰の役から太平洋戦争までに亡くなった7万6千余りの御神霊が祭られている鳥居・狛犬(右は獅子・左は犬との事)、屋根の緑青の色の綺麗な立派な神社である。各地に、その地の英霊を祀った護国神社は多くあるがこれほど立派な神社は初めてである。(護国神社の画像はこちら
今日はここでの青空昼食である。東海道では2回目かな・・
女性の好みそうな可愛くバラエティに富んだ弁当を車座になって、賑やかな笑い声も立派な惣菜となる楽しい昼食であった。いつでもどこでも笑い声のあるのはいい・・名物もいいが偶には青空の下もいいのかな・・


長沼一里塚碑(拡大)
護国神社鳥居 護国神社
曲金案内版
曲金神社

柚木駅まえの1号線から左折して、地下道でJR線東海道本線を横断して旧東海道へ右折したところの右側に「左江尻宿、右府中宿」の曲金(まがりがね)の東海道道標がある。「まがりかね」と普通に読めば間違えの無い地名だった。その先東海道線の見える交差点脇に、源氏縁の曲金神社(馬頭観音)がひっそりと桃太郎旗の脇にある、源氏と主と連れ添った馬の悲しい話を聞いた。JR東海道本線下をくぐり春日町1丁目交差点あたりから府中宿に入る。300mほど行った右側に西宮神社がある。大黒様と恵比寿様を祀った神社で軒の彫刻が立派である。拝殿の屋根には三宝(仏・経法・僧)を表す瓦があり、本殿の鰹木は4本であり、切れ目のない千木(ちぎ)・偶数の鰹木(女神を祀る神社と言われている)を初めて見た。維新の廃仏毀釈・合祀合併の名残なのかもしれない。

西宮神社・拝殿 本殿 町名案内碑
東照宮道・道標
華陽院・家康
お手植えのみかんの木

ここで根津講師の「あ、思い出た・・話しておかないと」のサプライズは「府中は東海道の何番目の宿場だったかな・・」

十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765−天保28月7日1831年)は、江戸時代後期の後期の大衆作家で日本で最初に、文筆のみで自活した。『tぷ海道中膝栗毛』の作者として知られる。駿府国府中(駿府:現在の静岡市葵区で町奉行の同心の子として生まれた。

『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802享和2年)から1814年(文化年)にかけて初刷りされた、十返舎 一九滑稽本である。後続の『続膝栗毛』は、1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行された。大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、街道を歩き、その様は娯楽メディア類で、いまなお活躍している。19番目の宿場「一九」はここで生まれ育ったと言うペンネームらしい。自身の絶頂期も晩年はつつましく過ごさねばならなかったとの話に「役人でいたら平平凡凡な人生だったのかな・・」と思う。

『栗毛』は栗色の馬。『膝栗毛』とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行」の意である。

江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)が、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都・大阪へと旅をする。道中の二人は冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

望嶽亭の今にはこの剽軽な姿を書いて残した先代の色紙が飾られていたのを思い出した。その時は写真が撮れなかったが、次に訪れる機会があったらぜひ画像に残したい。

伝馬町通りを進み横田町から伝馬町に入ると、右に徳川家ゆかりの華陽院(けよういん)がある。(華陽院の画像はこちら

徳川家康は今川氏の人質として8才から19才まで駿府にいたが、幼少の頃の家康は病弱であったため、当時、知源院と呼ばれていた華陽院の隣に住まう、外祖母源応尼によって親身に愛情をもって育てられた。1560年(永禄3年)5月6日の家康が19才の時、源応尼が逝去してこの院に葬られた。1609年(慶長14年)家康が隠退して駿府城に戻ってきたとき、盛大に源応尼の50回忌法要を行い、寺名も源応尼の院号の華陽院と改名した。源応尼の墓の隣には家康の五女市姫の墓の前には家正公お手植えの枝ぶりの良い松が植えられ、すぐ先には側室お久の方の墓もある。
その先を行くと道路左側に「上本陣・脇本陣」右側に「上伝馬本陣・脇本陣跡」の石碑・案内板、「東海道府中宿」の標識が立っている。 さらに進んで、静鉄新静岡駅を右に見て少し歩くと右側のビル前に「市指定史跡西郷・山岡会見之史跡碑」がある。1868年(慶長4年)旧幕府方を平定すべく駿府まで軍を進めた東軍参謀の西郷隆盛と、勝海舟からの書状を携えた幕臣の山岡鉄舟がここで会見し、江戸開城と徳川慶喜の処遇についての重用な下交渉が行われた。その4日後に江戸薩摩藩邸で西郷と勝の会見が行われ、江戸を戦場にせず江戸城の無血引渡しが決まり、江戸100万人の命が救われることとなった。望嶽亭を見てきた後なので一層深く感慨を感じた場所である。

源応尼の墓
上本陣・脇本陣址

上伝馬町本陣
脇本陣跡

西郷・山岡
会見の地址

街灯の地名表示

伝馬町通りから江川町交差点の五差路を直進、江川町通りから呉服通りに入る、洒落た店の並ぶ通りを300mほど進むと左側に伊勢丹があり、その前の歩道に「札の辻址」の石碑が建っている。
ここで駿府城址を見学するために、市役所の西側を通って県庁の北側の堀にでる。ここには静岡御用邸跡碑、駿府町奉行所跡碑、教導石碑その他いろいろな史跡があり、中に静岡の名の由来碑もある。

静岡の名の由来:明治4年廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。当初は賤機山(しずはたやま)にちなみ賤ヶ丘と決まったが、藩学校の向山黄村頭取が時世と土地柄を考え「静ガ丘」即ち「静岡」がよいと提案し、衆議一致で決まった。
堀にかかる二之丸橋を渡り、城址の駿府公園に入る。公園には、平成元年に二の丸東御門と巽櫓・本丸堀、水路が復元され、昔の面影の一端を偲ばせてくれる。
ここで東御門と巽櫓(資料館)の見学となる。団体行動の中の短い時間であったが、受付の人に写真撮影の可否と見学順路を確かめて中に入る。
資料館の展示品の一部


札の辻址
静岡県庁 駿府奉行所址 二の丸の石垣 石垣と堀

資料館としては多くの資料が展示されて、見応えはあった。特に城下の模型はここまで歩き、話を聞いてきたことが全体の縮図として見られ良かった。そして、咲き始めた河津桜、梅花を愛でながら、公園の本丸跡中央には家康の立像、お手植えのミカンの木(フェンスで囲まれているが)を見て、次なる浅間神社へ向かう。バスの車窓からは巽櫓を外から撮影でき、弥次さん喜多さん(彫像:撮影できず)がベンチで休む姿も見られた。

復元された本丸掘
復元された水路
東門入口 東門 東門・本丸側より

駿府城の歴史:約650年前の室町時代に、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏の領土であった。9代目今川義元の時、徳川家康は7才から18才までの間、今川の人質として駿府で暮らしていた。1582年(永禄3年)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたあと、今川氏は1568年(永禄年)武田信玄により駿府を追われ、武田領となった。徳川家康は駿府の武田氏を1582年(天正10年)に追放して領土とし、1585年から駿府城を築城して浜松城から移り住んだ。

しかし1590年(天正18年)に徳川家康は豊臣秀吉により関東へ移封され、豊臣秀吉系の中村一氏が城主となった。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで豊臣方に勝った徳川家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605年(慶長10年)に将軍職を息子の秀忠に譲り、1607年に三たび駿府に入った。

この時、城は拡張修築され壮大な城となっただけでなく、合わせて安倍川の堤防の改修や城下町の整備も行われ、現在の静岡市街地の原型が造られた。家康は1616年(元和2年)に亡くなるまでこの城に住み、将軍職を辞しても駿府の決定を江戸へ下ろす形で実質的実権を握り、駿府で大御所政治を執りおこなった。


渡廊下より
本丸・家康像
お手植えのみかん 巽櫓 浅間神社

家康死後は、頼宣、忠長が城主となったがその後は幕府の番城となり城代が置かれて明治を迎えた。城は度重なる大火や安政大地震で殆どが焼失したり崩壊してしまい石垣と堀だけとなった。(根津講師の説明と資料より)

浅間神社・山門
左甚五郎作・神馬
鳥居と門前町 七社参り札 海老名SAにて

バス移動の中で「七社参り」の説明があった。これもサプライズである。ここまで来て七社参りができるとは・・足早に、この世のご利益を全て網羅した「心中祈願一々成就・7社参り」をすることもできた。欲をかいていろいろお願いするよりも今日・・ここまで来られたことに感謝し一社ずつ頭を下げ、〆は「八千戈神社」で仲間たちと三条大橋へ行けることを願掛けて来た。帰路の楽しみは夕やみ迫る海の色と家族への土産、お疲れビールを飲みながらの撮った写真を眺める事と次の宿場への想いである。

今日のコースは 草薙神社→草薙神社大鳥居→旧東海道記念碑→長沼一里塚跡→護国神社→華陽院→上伝馬本陣・脇本陣跡→東海道府中宿碑
  →西郷・山岡会見乃跡碑→JR静岡駅前→駿府町奉行所跡碑→駿府公園(二の丸東御門・巽櫓・資料館見学・本丸跡・家康立像)→浅間神社・七社参り

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第20回 草薙〜府中宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

2012. 2.24 草薙〜府中宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 府中安倍川
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
鉄道で分断された旧東海道は黒点線で表示してあります。
たのしみは 街道歩きの 昼餉時 笑いを肴に 弁当喰う時
たのしみは 駿府の城の 狸爺 威光を放つ 姿見る時
                    街道歩きの いっちゃん