Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

浜松宿(濱松宿)現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。天竜川の右岸にあたるが、洪水の度に川の流れが変わったこともあり、現在の川岸からは6Kmほど離れている。
天竜川は諏訪湖に源をもつ「あばれ川」と言われ、洪水でしばしば大きな被害を及ぼしてきた。諏訪湖から下流へ5Kmほどの飯田市あたりはウオーキング大会で歩いた。穏やかに流れる川の水量は他の川と同じように、少なく「あばれ川」のイメージはなかった。

宿場として発展してきた街も、太平洋戦争による空襲や艦砲射撃で町の殆どが焼けてしまった。街中の古い建物もほとんどが終戦後に建てられたものである。
今回もたくさんの写真を撮ったのですが・・汗と湿気で濡れたカメラを拭う際に設定ボタンに触ってしまい「見づらい写真」となっています。
カメラ講座での格言:撮影前には必ず「設定のチェック」を!!


往路はおめでた ムードだったが・・

家康の旗印

厭離穢土欣求浄土

根津講師の説明
「三方ヶ原の戦い」
久しぶりの
富士川SAにて
磐田の案内板

往路の車中で根津講師手作りの絵地図での臨場感あふれる(サプライズ)「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」の説明があった。言葉だけより地図・絵地図があると位置関係が鮮明となり理解しやすい。府八幡宮、遠江国分寺址を後にして、約1Km直進すると瀟洒な形をしたJR磐田駅の前に出る。駅前から旧東街道は右折する。街道沿いに並ぶ、各商店の奥に掲げられた「ジュビロ磐田」のチーム旗を眺めながら市街地を通り抜け、県道261号と合流し「三方ヶ原の戦い」の前哨戦、小競り合いのあった「一言橋」を渡る。ふと、右側を見ると工場の敷地内に「くろんぼう様」と言う黒坊大権現が祀られていた。説明板によると「咳や熱病にご利益のある神様」と書かれていた。


案内板
くろんぼう様 一言橋
(露出オーバー)
恐竜が出た! 街道の案内板

一言橋から寺谷用水路にかかる万能橋をわたり短い区間に残る松並木の道を約2Km行ったところの「下万能」バス停前に江戸から「63番目の宮之一色一里塚」ある。この塚は昭和46年に復元されたもの。その先には「秋葉常夜灯」がある。この常夜灯は「鞘堂」に収められている。一里塚から1Kmほど先の右に「郷社若宮神社」がある。ここでは毎年10月の例祭に大相撲の力士を招いて奉納相撲が行われることで知られており、立派な土俵がある。

宮の一色一里塚 常夜灯案内板
鞘堂(秋葉常夜灯)
若宮神社 奉納相撲土俵

神社から約400m行くと天竜川土手の手前で十字路になり、そのコーナーの東海道道標の脇に「長森立場」「長森かうやく」跡の立札がある。
「長森かうやく」とは、江戸時代の1658~1660年に山田与左作衛門家で作り始められた家伝薬で、あかぎれ・切り傷などに抜群の効能があり、参勤交代の一行や東海道の旅人に大変人気があったと言われる。この製法は当主与左作衛門が夢枕にたった神様からのお告げで始めたと伝えられ、代々当主が受け継いできたが現在は作られていない。

奉納石絵 長森立場
長森かうやく案内板
渡船場跡碑 天竜川橋 天竜川(磐田側から)

十字路を右折、天竜川沿いに北へ行くと天竜川渡船場跡へ向かう。渡船場は「下・中・上」とあり、その日の水位等で使い分けられていた。このあたりを「池田」と言い、徳川家康をここの住民が助けたことから、渡船の独占権、特権を与え保護したと言う。
国道1号線、磐田バイパスを横断し、その先を右折して150mほど行き、左に曲がると、右側の民家の一角に「天竜橋跡」の標示板がある。天竜川は長い間、渡船で通行していたが、明治7年に明治天皇の東幸の際に船橋が作られたその後、明治9年に全長1163m、幅3.6mの本格的な木橋が開通し、昭和8年に国道に現在の天竜川橋ができたため、この木橋は撤去された。昭和48年に木橋の位置をとどめるため跡碑が建てられた。堤防は道路になっていて通行量も多い、堤防脇には案内板、石碑等が並んでいる。


下の渡船場跡碑

中の渡し場案内板

池田橋跡の碑
帆掛け船説明碑 池田橋説明碑

「上」の渡船場跡には池田橋跡の碑があり、碑の下方には江戸時代から続いている「髪切り所米山」、その先奥に謡曲「熊野(ゆや)」天然記念物の「熊野の長藤」「ゆやの墓」「ゆやの母の墓」ので知られる「行興1寺」がある。その奥には松の絵がかかれた能舞台のある西法寺がある。藤棚越しに見る寺(復元)は美しかった。

江戸時代の渡船図 江戸時代からの床屋 渡船料金 行興寺 熊野の長藤

対岸の浜松へ渡るためには、天竜橋と新天竜川橋どちらかを渡るが、交通量が多く、歩道がないためバスで渡る。橋の中央で浜松市へ入り浜松宿へ向かうことになる。

ゆや・ゆやの母の墓 西法寺案内板 天竜川(浜松側から) 六社神社案内板 六社神社

橋から150mほど下流に行くと旧東海道は右折して堤防を下り、右側の「六社神社」前を通る。この「六社神社」は1276年(建治2年)の尾張国中野郷より勧請したものと案内板にある。


街の案内板
天竜川橋紀功碑
軽便鉄道軌道跡
妙恩寺本堂 妙恩寺薬師堂

神社から西へ直進し「軽便鉄道跡碑」が民家の角に立っている。その先日像上人が開創し、徳川家康が武田軍との戦いの際、家康軍が本陣に使用することを快諾し、三方原の戦いで敗れた家康が身を隠し、難を逃れたという伝説も残されている「妙恩寺」に参拝し、約1Km先、右側に黒板塀に囲まれた「金原(きんぱら)明善の生家」がある。金原明善は、「あばれ天竜」と称された天竜川のたび重なる氾濫で犠牲者が出るのを見て、反対する明治政府を説得し私財をなげうって20数年の歳月をかけ、明治33年に天竜川堤防工事を完成させた人である。
東海道を歩いていると、こういう私財を投げ打って人のために役立たせたという話をよく見聞きする。
道を挟んで反対側には「明善記念館」(現在は閉館中)がある。明善生家の先に「安間一里塚跡」案内板とフェンスの中に朽ちた杭にかすかに「一里塚」と読める一里塚跡がある。500m先の浜松バイパスのガードをくぐりその先、250mほど歩くと左側に風情のある松の木の脇に「立場跡」の案内板がある。

金原明善生家
(黒塀スポットのため)
姫街道本坂通起点
案内板

安間一里塚案内柱

安間一里塚跡
立場跡案内板

浜松アリーナの前を通って約3Km行くとその先、芳川にかかる琵琶橋を渡る、さらに500mほど行くと右に、「龍梅禅寺」の石柱と山門が見える。

さらに152号線を進み左側の浜松東警察署の建物から約20mのところに、江戸日本橋から65里の「馬込一里塚跡標示」かわいい案内板がある。講師がいて案内.説明があるから見ることが出来るが、一人街道歩きでは通り過ぎてしまいそうである。


立場跡

アクトタワーが遠くに
琵琶橋 馬込一里塚 東鎧橋

さらに300mほど進むと馬込川にかかる「馬込橋」にくる。この橋は浜松宿の東番所があったところで、ここから浜松宿ということになる。橋から100mほどで松江交差点があり、先に見える高いビルはJR浜松駅前に建つ「アクトタワー」でどこからも目立ち、これを目標に歩いてきた。

まっすぐ西進して行くと浜松の商店街に入る500mほど歩くと連尺町交差点である。旧東海道はこの交差点を左折であるが、今日の宿(コンコルドホテル)は右折して500mほど行ったところにある。


旧掛塚街道案内板

外木戸跡案内中

アクトタワー
浜松東照宮 御手洗(みたらし)

市役所の奥に聳える浜松城の天守閣を見て、ホテル(コンコルドホテル)の前を右折すると、社殿に徳川家の家紋「三つ葉葵」境内には、かつてこの地に城があったことを示す「曳馬城址(引間城址)と刻まれた碑が立つ「東照宮」がある。

余談ではあるが今回は「椿姫」・・いつの世も女性が(歴史の表裏で)活躍する。浜松城でも活躍した女性の物語がここにもあった。また、訪れる機会あればこの「家康の散歩道」を歩いてみたい。



今日のコースは 府神社→JR磐田駅前→くろんぼう様→一言橋→万能橋→宮の一式一里塚→さや堂(秋葉常夜灯)→若宮神社→「長森かうやく・
 長森立場」立札→天竜橋跡→
天竜川渡船場跡石碑・案内板→池田橋跡碑行徳寺→西法寺→(天竜川橋:バス移動)→六社神社→金原明善記念館→
 軽便鉄道跡碑→妙恩寺→立場跡→琵琶橋→(
蒲神明宮龍梅禅寺)→馬込一里塚跡案内板→東鎧橋→旧掛塚街道案内板→馬込橋→外木戸跡→
 連尺町交差点→東照宮 



クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第26回 見附~舞阪」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                                目次

2012. 7.10 見附~浜松    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
江戸日本橋から浜松宿まで252.7Km 見附宿~浜松宿間11.1Km
濱松冬枯れの図