大樹寺
常夜灯
二十七曲
江戸日本橋から岡崎宿まで315.1Km 藤川宿~岡崎間6.6Km

岡崎宿:岡崎は矢作(矧)川と支流の乙川の合流する、五万石舟での物資の輸送路
(舟運)の要とて位置した。
岡崎城は1455年(康正元年)西郷稠頼により築城され、1542年(天文11年)徳川家康はここで生まれて、今川氏での人質時代を挟んで1570年(元亀元年)浜松城に移るまで居城としていた。その後、秀吉の家臣田中吉政によって城下町として整備され、矢作川に初めて橋をかけられ、さらに二十七曲りの防衛を築き、東海道を城下町に通した。そして府中、宮宿と並ぶ繁華な宿へと発展して行った。
岡崎宿の中心は伝馬町でここに東西の本陣、脇本陣、問屋場などが立ち並び、東の籠田惣門の前には往来する高位高官者に岡崎藩が接待をした御殿である、御馳走屋敷があった。また市内には300余の多くの寺院があり、美しい都市景観をなしている。
本陣:3軒、脇本陣:3軒、旅籠:112軒

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
竊木神社
薬王寺
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
ゴールよりバス移動

10月27日

昨日のゴール地点が今日のスタートとなる。1号線と別れ、左の細い舗装された道に入り、美合新町の閑静な町並み、畑の中を通って竜泉寺川にかかる坂下橋を渡る。500mほど歩くと山綱川と出合う。ガイドブックには「岡崎源氏蛍発生地碑」とあったが碑は見当たらない。だが、この山綱川流域には間違いないよう(講師に確認)である。その先300mほど行くと、道は乙川(大平川)に遮られてしまう。かつては橋があったが、現在は土手道を右折して乙川にかかる太平橋を渡って迂回し、旧東海道へ戻ることになる。川の反対側に続いていた街道が確認できた。橋の上から見る乙川の流れに心安らぐ。
太平橋を渡ると、岡崎の城下へ向かうことになる。

部屋から見た朝日 レストランからの
岡崎城(パノラマ)
出発風景
スタート地点
山綱川 乙川(対岸の街道)

乙川にかかる大平橋を渡り国道1号線に沿って少し歩いて行くと、小川があり、そこから左折して旧東海道へ戻る。日本高分子の敷地の前を通り、北の方へ約200m行くと1号線に出る。交差点を横断して大平町に入る、道なりにゆるい坂を上ると右に薬師寺がある。

道は1号線に平行に進み300mほど行くと丁字路があり旧東海道は直進であるが、右折して50mほど行くと右に、大岡家陣屋敷跡がある。八代将軍徳川吉宗時代、江戸の名町奉行と評判だった大岡越前守忠相は旗本であったが、1736年(元文元年)72歳で1万石の大名となり西大平藩主として、ここに陣屋を置いた。その後も大岡家はここを陣屋として使い明治まで続いた。大岡家は江戸常駐の定府大名であったので、多くの家臣は江戸邸に住んでいて、陣屋には郡代以下手代を含めても10名程度しか詰めていなかった。跡地は最近再建されたもので新しく、門の中には遺構らしいものは何もない。

薬師寺
越前陣屋跡案内碑
陣屋跡表門 陣屋跡歌舞伎門
大平一里塚

常夜灯

旧東海道に戻り200mほど北西に歩くと、交差点を渡った左側のバス停のところに、昭和12年国指定史蹟大平一里塚がある。原型をよくとどめている南塚で、高さ2.4m、底部は縦7.3m横8.5mの菱形で、塚の中央にある榎は昭和28年に植替えかえられたもの。道を挟んで反対側には、秋葉常夜燈があるがびっくりするほどの高さである。ここには北塚があったが昭和3年に壊されてしまった。その位置なのか・・小さな社と新しそうで大きな常夜灯が立っていた。

一里塚から200mほど歩くと1号線に出るので、合流して高架橋下を通りながら約1Km行き、筋違橋の標識から右へ斜めに入り坂道を登っていく。400mほど行くと道は十字路になり、その手前の左に「岡崎二十七曲りの碑」がある。写真を撮ったが磨かれた碑は鏡面のようで書かれた内容を写すことはできなかった。徳川家康が江戸へ移った後、田中吉政が岡崎城に入り城下町の整備をした。そのとき乙川の南にあった東海道を城下町に通すにあたり、城の防衛のため二十七の屈曲(曲がり道)を設けた。近年になって曲がり角の道標が整備され、旧東海道を容易に辿ることができるようになったと言う。

二十七曲碑 モニュメント 根石寺
道標

二十七曲碑前の十字路を右折して約100m行き十字路を左折すると、岡崎市保健所前(げんき館東南前)角に最初の道標(両町角まで)から二十七曲が始まる。「扇町より伝馬町」「欠町より役町角 岡崎宿東入口」と刻まれた二十七曲の道標がある。げんき館前通りはとても閑静な住宅街で10分弱歩くと「両町より伝馬町」と刻まれた次の道標、右折して3分ほどで3番目の道標、左折して伝馬通りを西へ6分ほど歩くと伝馬交差点の左側に創業天明2年と書かれた、いかにも由緒ありそうな備前屋(あわ雪)の白い建物がある。伝馬通りのこの辺は、戦災を受けなかったので古い家並みが残り「永田屋」や「糸惣」などの店構えや看板が往時をしのばせてくれる。

東本陣跡
信州路道標
備前屋
西本陣跡

二十七曲記念碑

道標

備前屋から直進して3分歩き「西本陣前」の道標を左折すると岡崎信用金庫資料館の建物が見える。5分ほど進むと宿場の通りであった籠田惣門通りに出る。道の中央に小さな広場があり籠田惣門跡碑が建っており、その反対側(北側)には温厚な顔をした田吉義政の座像がある。碑の前を通り過ぎて右折し先ほどの伝馬通りを横断し籠田公園の脇を通り4分歩いて左折すると「籠田町より連尺街角」の道標がある。そのまま歩道を歩き岡崎東海道二十七曲り記念碑を通り過ぎると広い通に出る。通りを横断し直進し籠田道標から7分歩くと道は丁字路になるので細い道の方へ右折するとに「岡崎城対面所角」の道標がある。細い道は1分も行かないうちに丁字路になり道の反対側に「材木口木戸前」の道標があるので、そこから左折してすぐ右折し1分歩いて左折すると自動車通りに出る。そこを右折して左側歩道を歩いて数分行くと木まち通りに出るがその角に「材木町角」の道標がある。木まち通りに出て西へ6分歩くと伊賀川にかかる柿田橋がある。手前には商家唐弓づるの風情のある建物が建っている。手前の堤防を左折すると木の根元に「材木町より下肴町角」の道標がある。
岡崎げんき館の岡崎宿東入口道標からここまでは、乙川の北側の岡崎市街の中心部を歩いてきたが、この辺からいかにも中心から外れた感じのする風景となる。堤防を2分行くと伊賀川にかかる三清橋へ右折する角に「下肴町より田町角」の道標がある。その先には「田町北角」の道標があり、伊賀側を渡り岡崎城址に入る。


岡崎信用金庫資料館
籠田総門跡碑
田中吉政座像
商家・唐弓づる
道標

伊賀川

旧東海道はそこから右折して行く、左手見えている岡崎城址が堀の外から木々の間から頭を出している城の天守閣が見える。
岡崎の城下町の二十七曲りは、曲りの道標をたどっているうち(「い」から付けた標識があるが・・)どこが何番目の道標なのか分からなくなってしまった。これだけの数には位置関係を示す写真の方も必要であろう。
5、60mから600m毎に曲り角があり、写真を撮りながら地図を追っていたが、位置関係が分からなくなる・・写真は撮った順に掲載しておくこととした。
伊賀川を渡り城址公園に入る、家康の産湯に使った井戸、えな(胎児を包む膜、すなわち羊膜等)塚、大手門、城外にある「浄瑠璃姫の墓」を見て回る。
歴史のある城は大きな木に囲まれ、掘割周りも鬱蒼と樹が茂っていた。城址跡にはたくさんの銅像・灯篭、碑唐があったがひとつひとつの記録を取ることはできず、写真のみとなった。
城に隣接した神社、式場があり、城全体の写真は撮れなかった。七五三参りの親子が武者姿のガイドと写真に納まる姿はほほえましかった。
天守閣(刀剣が素晴らしく、火縄銃も展示され当時の様子もよく分かった)、資料館(展示されている甲冑が素晴らしかった)、からくり時計(家康が舞、最後に面をかぶる)、三州足助太鼓・響の演奏は勇壮で素晴らしかった。足早の約1時間の自由見学であったがそれなりに城址を楽しめた。

岡崎城 掘割 天守閣 三州足助太鼓 響きの皆さん

城址内の茶屋での「串かつ(味噌だれ)定食」の昼食となった。その地の名物を食べられるのは嬉しい。

伊賀川を渡り城址公園に入る、家康の産湯に使った井戸、えな(胎児を包む膜、すなわち羊膜等)塚、大手門、城外にある「浄瑠璃姫の墓」を見て回る。
歴史のある城は大きな木に囲まれ、掘割周りも鬱蒼と樹が茂っていた。城址跡にはたくさんの銅像・灯篭、碑唐があったがひとつひとつの記録を取ることはできず、写真のみとなった。
城に隣接した神社、式場があり、城全体の写真は撮れなかった。七五三参りの親子が武者姿のガイドと写真に納まる姿はほほえましかった。
天守閣(刀剣が素晴らしく、火縄銃も展示され当時の様子もよく分かった)、資料館(展示されている甲冑が素晴らしかった)、からくり時計(家康が舞、最後に面をかぶる)、三州足助太鼓・響の演奏は勇壮で素晴らしかった。足早の約1時間の自由見学であったがそれなりに城址を楽しめた。
城址内の茶屋での「串かつ(味噌だれ)定食」の昼食となった。その地の名物を食べられるのは嬉しい。


船着場跡
藤棚
道標

八町味噌蔵カネキュウ
味噌蔵
黒塀

掘割、船着場、藤棚を見て回り、城址に入った伊賀川かかる橋を渡り、左折して行くと「板屋町角」の道標がある。国道1号線に出るので歩道橋で反対側に渡り、200mほど南へ歩いて行く。「松葉総門跡」「八丁村」の道標があり、松葉通りに出て愛知環状鉄道のガードをくぐると右側に黒塀が延々と続く。
塀の終点から右手を見ると、奥行きの深い建物であることがわかる。ここは岡崎名物八丁味噌蔵で「当地でも歴史があり、NHKの「純情キラリ」の撮影路けちでも知られている「カクキュウ」産を見学した。600年前から始まり、吉野杉で作られた高さ2mの仕込み桶に原料を入れ、その上に重石を円錐状に積み上げ3年かけてじっくりと熟成させてつくられる・・石を積むにも5年の修行が必要とガイドさんの話しがあった。手際よい約10分ほどの工場見学には多くの観光客の列が続いていた。見学コースのコースの終点はどこでも同じ・・試食とお土産コーナーである。
八丁蔵周りのの黒塀を眺めを、右折して矢作川の堤防沿いに歩くと国道1号線に出る。1号線に出たら左折して矢作(矧)川にかかる拡幅工事中の矢作橋を渡る。橋の上から眺めた矢作川も雄大である。江戸時代の旧矢作橋は現在より20m下流にあり、長さ374mと現在より100mも長い東海道一の長さであった。矢作橋を渡ると右の橋のたもとに、出会之像があるはずだったが、工事のために撤去されていた。「日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六が出会ったという矢作橋にちなんで作られたものであるが、時代考証によると何故かその時代には矢作橋はなかった」と講師の話もあった。


矢作橋
矢作川 出逢いの像 誓願寺 十王堂

出会之像から右へ10mほど行き、1号線と平行な道へ左折して600mほど行くと、右に誓願寺十王堂がある。1174年(承案4年)東北の藤原秀衡を頼って旅をしていた源義経は、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとった。長者の娘浄瑠璃姫と琴と笛が縁で二人の間に愛が芽生えたが、義経は東北へ旅たたねばならず名笛「薄墨」を姫に授けて里を後にした。姫は義経への恋情を抑えきれず後を追ったが追いつけず、ついには17才の儚い身を菅生川に投じた。(悲恋はいつも女性の身を投げたところで終わる・・)長者は姫の遺体を誓願寺に埋葬し、十王堂を建て姫と義経の木造を作り、名笛「薄墨」と姫の鏡を安置して供養したという。浄瑠璃姫は美人で才女、琴の名手であったという。なおこの悲話は小野お通が音曲に仕立て織田信長の前で演奏したのが、浄瑠璃の始まりといわれている。


竊木神社・石柱
竊木神社 薬王寺山門 薬王寺
クラツー1000
岡崎城・夜景

左に隣接した保育園の片隅に、浄瑠璃姫と兼高長者の墓が並んで建っていると話があったが保育園は休み・・園内に入れずそれらしき物を確認した。
十王寺から約600m行き1号線と合流して西北へ約1.2Km行くと、安城市看板が見える。ここから安城市を経由して知立市の池鯉鮒(ちりふ)宿へ向かうことになる。岡崎市から安城市宇頭町に入り1号線と合流し西北へ約1Km行くと道は分岐し、旧東海道は1号線と別れて右手の尾崎松並木道になる。

今日のゴールである。ここでバス(クラツー1000)に乗り、岡崎城から北に約3Kmほどのところにあり、松平家・徳川家縁の「大樹寺」に向かう。
大きな寺である。寺内部は撮影禁止、案内はスピーカーから流れ、少々趣はなく観光化している様に思ったが・・展示されている襖絵、松平・徳川の歴代将軍の「等身大の御位牌」は素晴らしいものであった。
多宝塔、鐘楼、山門から眺められる岡崎城と当時の権力の大きさをしみじみと感じさせられた。写真撮影は禁止のためパンフレットを掲載。



今日のコースは 国道1号(昨日のゴール)→坂下橋(竜泉寺川)→大平橋→道標→大岡家陣屋屋敷跡→大平一里塚→岡崎二十七曲モニュメント→道標・
 両町より伝馬町角→道標・・東本陣跡→
道標・・→信州街道道標(備前屋前)→二十七曲案内碑→西本陣前・西本陣前角道標→岡崎信用金庫資料館→
 籠田惣門跡碑→田中吉政像→道標・篭田町より連雀町→道標・岡城対面所角→商家・唐弓づる→道標・材木口木戸前→道標・材木町角→柿田橋→道標・下肴町
 → 三清橋(糸賀川)→道標・田町角→(岡崎城址見学)→板屋町角・道標→松葉総門跡道標→八丁村道標→(八丁味噌蔵見学)→矢作橋(矢作川)→
矢作橋・
 出逢之像(案内板)→誓願寺十王堂→浄瑠璃姫・
兼高長者の墓→ 尾崎松並木→(バス移動)→大樹寺→備前屋(お土産購入)


クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第28回 赤坂宿~知立」 街道案内人 根津信年 歴史講師


                                  10月28日 知立へ
 

 岡崎矢矧の橋
2012.10.27 藤川宿~岡崎宿(尾崎松並木)  歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ