この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
 藤川宿棒鼻の図
江戸日本橋から赤坂宿まで299.7K、 赤坂宿~藤川宿間8.8K

赤坂宿:御油宿とは宿中心でわずか1.7Km、宿のはずれでは600m程度しか離れていない東海道でもっとも宿駅間が短かった。宿の長さは約900mで歓楽街としても有名であった。御油宿との客の奪い合いが壮烈で昼間から派手な化粧と着物を着た女性が客引きをし、旅籠からは管弦の音色が耐えることがなかったという。
1733年(享保18年)には家数400軒のうち83軒が旅籠であったが、旅籠の実態は宿というより娼家に近いと言われている。この歓楽街には旅人だけでなく近郷近在から遊びに来る人も多かった。大橋屋のご主人の「女性が多いなか、話をするのもと・・「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、親に勘当うけやせぬ」が当時の流行唄を紹介してくれた。1709年(宝永6年)の大火災で宿場の大半が焼けた後、この歓楽街は復旧されることはなかった。
本陣:3軒、脇本陣:1軒、旅籠:62軒

10月26日

旅籠大橋屋のすぐ左側に親鸞聖人聖徳太子縁の正法寺がある。寺にはたくさんの宝物があるが一般には公開していない、観光優先の寺にはしたくないとのご住職(先代の奥様)の話に多くのものが見られなく残念と言う気持ちだが・・その一方、感心もした.。正法寺を出てすぐ右の電柱の脇に高札場跡の標示があるがガードの鉄柱の影で分かりにくい。。さらに道の反対側、斜め前の一段高くなったところには、東海道赤坂宿陣屋跡(よらまい館)がある。


正法寺石柱
本堂
有楽の松

見付跡
赤坂宿陣屋跡
(よらまい館)
杉森八幡宮

大橋屋から400mほど歩いた右の細い道に入り10mほど行くと、杉森八幡宮の鳥居がある。702年(大宝2年)持統天皇が巡幸したおり勧請したのが起こりという古い社で、境内に夫婦楠と言われている一つの根株から二本の幹が出ている楠がり、樹齢約1000年と言われている.。八幡宮を出てすぐ右側に赤坂宿の西の入口になる見附跡の標示がある。


見付跡

長沢一里塚
長沢城址跡案内板 誓林寺山門
村社巓神社
(いただき)

街道の街並

見附跡のすぐ先から。赤坂宿をすぎるとほどなく長沢の一里塚である。長沢の一里塚は表示杭に「一里塚跡」と書かれているだけである。街道脇の一本杭・・気をつけないと見過ごしてしまいそうである。一里塚跡の斜向かい音羽中学校の道路枠に脇に「長沢城址跡」の案内板が立っている。
誓林寺から少し行った右側に立派な石柱と常夜灯が立っている。名当てクイズが講師から出た「村社巓神社」である。答えはこのページに・・
長沢の一里塚ほぼ真っ直ぐ約1Km歩くと、右手に誓林寺がある。誓林寺は、1235年(嘉禎元年)親鸞の弟子の誓海坊が草庵を建てたのが始まりで、その後、1468年年頃、信海によって寺が建てられ誓林寺となった。その先、国道1号線との合流手前に芭蕉の門人・磯丸の歌碑がある。


磯丸の歌碑

馬頭観音

常夜灯
並走する名鉄
本宿入口石碑

本宿入口

誓林寺から約800m行き、音羽川にかかる大楠橋・千両橋を渡って右折すると国道1号線に出る。旧東海道の東側を国道1号が走る。その東側は、名古屋鉄道名古屋本線が、そのまた東には東名高速道路が走る。長沢から本宿付近は3本の幹線がもっとも接近している。淡々と歩いて約1.5Km行くと眼の前に岡崎市の看板が見える。ここが音羽町と岡崎市の境界で、藤川宿へ進むことになる。
赤坂宿と藤川宿の間に、間の宿として本宿がある。ここには知行所支配のための陣屋が置かれ、旅人の休息場として繁盛し、地場名物の「法蔵寺団子」「ひさご」などは街道筋でも評判であったと言う。

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。

江戸日本橋から藤川宿まで308.5Km 赤坂宿~藤川宿間8.8Km

藤川宿:藤川宿は東海道以前の鎌倉街道時代から、旅人の休息場としてあった古い宿場である。

江戸幕府は53次の宿駅を整備するにあたり集落地を移転させて、約1Kmにもわたる長い宿場町を作った。塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所でもあった。また1772年(安永元年)の疫病で人口の1/3病死するという大騒動があった宿(しゅく)でもある。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒

藤川宿案内板 御草子掛松 賀勝水 東照宮への階段 東照宮 東照宮から本堂

本宿の町並みは綺麗に整備され、歩いていても歴史保存に熱心な様子がうかがえた。説明板から、百数十m行くと左奥の一段高いところに法蔵寺の山門が見える。701年(大宝元年)僧、行基の開山と伝えれ、松平初代親氏が1387年(至徳4年)に堂宇を建立して寺号を法蔵寺としたといわれている。

徳川家・家臣の墓
近藤勇胸像

亀姫の墓
本堂
藤川宿本陣跡
本陣跡石垣

ここで徳川家康が幼い頃手習いや漢籍を学んだとされ数々の遺品が残されている。そのひとつに家康が手習いの折り草子をかけたと言われる御草子掛松が門前にあるが、この松は昭和57年に枯れたので58年に植樹したとある。境内には新撰組で有名な近藤勇の首塚が祀られている。近藤勇は1868年(慶応4年)年4月25日に東京板橋刑場で処刑され、その首は京都三条河原に晒された。同士がその首を盗み出し、近藤が敬慕していた当寺の住職に頼んで密かに埋葬したものであり、近年になってからその存在が知られたと言う。胸像の前の階段を数段下りた所に家康の長女亀姫の墓があるが、案内板等もなく講師による説明がなければその存在は知る由もない。

法蔵寺から出て、法蔵寺橋を渡って数分歩くと、右に本宿陣屋跡と代官屋敷の説明板がある。この辺が江戸時代の間の宿としての本宿の中心であった。代官職は代々富田家が世襲し、現在の居宅(現富田病院)は1827年(文政10年)の建築とのことでありその周辺には当時の石垣が残っている。。


火の見櫓

常夜灯
十王堂跡
本宿一里塚
長屋門
常夜灯と鳥居

さらにその先には右に行く道があり、その角に火の見櫓がある。その足元には「為当所火災消除口」「寛政十三辛酉歳二月」(1801年)と刻まれた秋葉常夜燈がある。

常夜灯から数分歩くと、右に本宿一里塚跡碑(石柱)がある。その先の道は真っ直ぐで、約1.5Km歩くと町並みの外れとなり、小高い山の麓に山中八幡宮の赤い鳥居が見える。本殿の脇から入る道があり、そこを行くと小さな石垣としめ縄のある小さな祠がある。家康の三河平定の過程で生じた三河一向一揆で、一揆軍に追われた家康が、ここに逃げ込み窮地を脱した。追っ手の一揆方が、家康の隠れているこの洞窟を探そうとしたところ洞窟から鳩が飛び立った。「人のいるところに鳩がいる筈がない」そう思い込んだ追っ手はこの場を立ち去った。洞窟は鳩ヶ窟と呼ばれ、葵の御紋の石柱で囲われている。拝殿の彫刻にも白鳩が2羽彫られていた。

山中八幡宮鳥居
灯篭
山頂の鳥居 鳩ヶ窟石碑 鳩ヶ窟 八幡宮拝殿

八幡宮裏手の登り口には「御開運御身隠山」と刻まれた立派な背の高い石碑が見える。1号線と合流して500mほど歩くと藤川宿の入口に進む。

旧東海道は左の歩道を進むと、前方にいろいろな案内板や標示が並んでいるのが見える。藤川宿の入口で東棒鼻標示との説明板もある。棒鼻とは宿の出入口のことで、東にあるので東棒鼻という。東棒鼻は安藤広重の版画にも画かれ、それを再現してある。


裏手・石柱

東棒鼻案内板

東棒鼻
町並 明星寺
粟生人形店

東棒鼻標示から真っ直ぐなゆるい下り勾配の町並みを進んで行く。先に進むと左の津島神社標示の両脇に堂々とした常夜燈がどっしり構えている。その先左側の道を入ったところに明星院(みょうじょういん:片目不動尊)がある。ここも徳川家康縁の寺である。
ゆるい登り坂の途中、左側には、粟生人形店のひと際目立つ木造3階建に見える(実は2階建てとのこと)の白壁の建物がある。昭和63年に第1回岡崎都市景観環境賞を受賞されたということです。

さらにその先の左には、江戸時代の商家米屋・銭屋の建物が残っている。格子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるようになっている。類焼を防ぐために庇の両側に「軒卯建」がある。通りの反対側には、藤川宿の本陣跡の看板がある。ここが藤川宿の中心となる。本陣家の建物は、門、玄関、上段の間を設けることができ、当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていた。裏手一帯には本陣・脇本陣跡の石垣が残っており木製の看板で案内されている。

左には現在、藤川宿資料館となっている「藤川宿脇本陣跡」の建物がある。この建物は関が原の戦いの後に藤川に居住した大西喜太夫(橘屋)のもので、藤川宿は度重なる大火で殆ど消失してしまった中、昔の面影を残すもっとも古い遺構となっている。庭には本陣跡碑がある。


問屋場跡
銭屋・軒卯建 脇本陣石垣跡 藤川資料館
(脇本陣跡)

西棒鼻跡
歌川豊廣歌碑

ゆるい下り坂を約300m歩いて行くと右側の藤川小学校校庭前の西端に、宿場の西入口にあたる背の高い西棒鼻跡標示がある。その先に並んで、「藤川のしゅくのぼうはなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし」と刻まれた歌川豊廣(1774~1829年:江戸時代後期の浮世絵師で門人として安藤広重がいる)の句碑がある。
校庭のはずれの十字路を横断すると、左角に十王堂と芭蕉の句碑がある。十王堂は冥土で亡者の罪を裁く、泰江王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、太山王、都市王、五道転輪王の十王を祀る堂で、この藤川の堂は1710年(宝永7年)に創建されたと言われているが・・お堂の中は暗くその姿はかわからなかった。

堂の前には芭蕉の「爰も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」と刻まれた句碑がある。寛政5年に建碑されたもので高さ1.65m、巾1.6、厚さ0.22mで、この近辺では最大の大きさと言われる芭蕉句碑である。むらさき麦は5月頃収穫されると講師の説明が翌日(よるしらべたようだ・・)あった。

十王堂
芭蕉歌碑

藤川一里塚
吉良道追分
藤川松並木(縦撮影)
藤川松並木(横撮影)

そこから約20m行くと「藤川一里塚跡」の案内板がある。小さな案内板と石垣に隠れている小さな木製の標示板であり、情緒のなさを感じてしまう。

下り坂をしばらく歩いて前方の道は左右に別れている。この分岐は旧東海道と吉良道の分岐点で、分岐点の真ん中に1814年(文化11年)に建てられた吉良道道標がある。左の道が西三河湾岸へ通じて利用度の高かった吉良道である。旧東海道は右の道ですぐ名鉄名古屋本線の踏切を渡る。
分岐点の吉良道のゆるいカーブにあたるところに、「吉良道」「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造の観音さまが祀られている。

旧東海道はゆるい下り勾配で名鉄線の踏切を渡ると、藤川松並木となる。国道1号線に合流するまでの約1Kmの間に90本の黒松が植えられている。樹高30mクラスの松もあり岡崎市指定天然記念物となっている規模の大きい並木である。狭い並木通りであるが車の往来は多い。団体を意識してか、車は我々をよけて走ってくれた。街道歩きの楽しみの一つが松並木を歩くことだ。ここの並木も規模が大きく距離もあり、カーブがあるので趣もある。松並木から約1Kmほど歩いたところが今日のゴールとなった。



今日のコースは 旅籠大橋屋→正法寺→高札場跡杉森八幡宮(夫婦楠)見附跡(西側)→長沢一里塚→長沢城址跡→誓林寺大楠橋・千両橋→
 本宿(間宿)→本宿記念碑→法蔵寺→法蔵寺橋→本陣跡・代官屋敷跡→火の見櫓・秋葉常夜灯→
本宿一里塚跡→山中八幡宮→東棒鼻標示杭→藤川宿
 →明星院→粟生人形店→商家米屋・銭屋→本陣跡→藤川宿資料館→西棒鼻跡→十王堂→芭蕉句碑→藤川一里塚→吉良道道標→藤川松並木

クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第28回 赤坂宿~知立」 街道案内人 根津信年 歴史講師


                                  
10月27日 岡崎宿へ 

2012.10.26 赤坂宿~東棒鼻跡(藤川宿)    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 赤坂旅舎招婦の図