この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
 石薬師宿より
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2012.12.19 内部~石薬師宿・庄野宿~井田川    
                                       歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ           
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
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12月19日(水)

近鉄内部駅がスタートとなる。ホークで駅長さんに電車の話を聞く。狭軌の線路を走る電車はカラフルな車両を連結した3両編成、路線バスと同じぐらいの幅の小さな車両である。小学生の公募によりカラーを決めたそうである。
駅前の旧東海道を歩き始めると、すぐに右折し50mほど行き左折、道なりに700mほど行くと内部川堤防に突き当たる。
現在は橋がないので、1号線の内部川に架かる内部橋を渡り、横断するのだが、地元の人がつけたのか小さな案内板を見ながら、道路下の地下遊歩道をくぐり旧道に出る。国道1号線で街道は遮断されている。街道歩きの旅人が迷わないように、無理な横断をしないよう付けた案内板のようにも思えた。
潜り渡り終えた先を右折、1号線と平行して進む。
道なりに行くと丁字路になり左折して進むと坂道の正面に小さな金毘羅堂が見え、そこからまた左折して進むと道はさらに急坂となり続いていく。
この坂は東海道でも急坂で知られ、息吹山の賊を討ち傷ついた日本武尊敬が剣を杖代わりに歩いたというところから、杖衝坂(つえつきさか)と呼ばれている。坂を登って行くと、左側に順に史蹟杖衝坂碑、芭蕉句碑、二つの井戸が並んでいる。
芭蕉句碑には、1687年7(貞享4年)芭蕉がこの坂にさしかかった時あまりの急坂で落馬し、そのとき読んだ季語のない句として有名な「歩行(かち)ならば 杖衝坂を 落馬かな」が刻まれている。句碑は1756年(宝暦6)に村田鵤州が建立したもの。二つの井戸は、上手は弘法の井戸といい、弘法大師が水に困っていた村人に杖で指し示して井戸を掘らせ、清水を沸き出させた井戸との伝説があり、下手は大日の井戸といい、坂の中腹にあった大日堂に供える水をくみ上げた井戸といわれている。


近鉄四日市駅にて

駅の風景
(近鉄内部駅)

金毘羅堂
内部まち角博物館
杖突坂の碑

芭蕉句碑

10分ほどで坂を登り切ると、そこは高台の釆女の町並となり、すぐの左側には日本武尊の足の出血を封じたとのいわれの血塚社の祠がある。
高台を5分ほど歩いて再度1号線と合流する。合流したすぐ先道路右側(反対側)に采女一里塚跡石碑が立っている。さらに1号線を西へ進み采女町交差点を通って約1Km行くと国分町信号のポールに鈴鹿市の看板が見られる。ここから四日市市から鈴鹿市に入り、旧東海道は1号線と別れ信号の左の道を進み石薬師宿に向かうことになる。

国分町信号から国道1号線と別れて、左の道を南西に歩くとそこは小谷の町並みとなる。約1Km歩くと1号線に出るので、地下道を潜って反対側に渡りさらに1号線沿いに200mほど行ってから1号線と別れて右手の細い道に入る。その入口の左手に延命地蔵の北町地蔵堂がある。

江戸時代賑わった石薬師宿の入口に旅の安全を祈って建てられたという。ゆるい坂道を登って行くと、石薬師の町並みが見えるが、ここからは昔の面影を感じられない。
少し先の右に大木神社の鳥居があり、この奥深いところに神社がある。鳥居から延々と歩いて行くと、なんとまた鳥居があり、その奥に大木神社があった。
ここは1ヘクタールにもおよぶ石薬師の鎮守の森で、サカキ、モチノキ、ヤブニッケイ、スギ、ヒノキなど100種もの樹木や草木が混在している。その主体をなすのがブナ科スダジイのシイの巨木である。


杖突坂

血塚社

采女一里塚
石薬師宿の石柱
北町地蔵堂

大木神社

旧東海道に戻り、すぐ先の右側には小沢本陣跡碑があり建物も残っている。建物は明治初期に建替えられているが、西国大名や当時の人々の宿帳等が残っていて、赤穂の城主浅野内匠頭の名前も記されている。小沢家9代御当主(小澤晋氏)が温かく出迎えてくれ、お茶をご馳走になりながら話を聞き、たくさんの貴重な当時の宿帳・食器、陶器類を見せていただいた。
博物館・資料館ではとてもできない当時の物をじかに触れる(講師・TDさんからは事前に取扱い注意がありました)貴重な体験もした。
道の反対側の民家の塀には、「東海道」「石薬師宿」の標示と、奥の方には「広重の絵画」が飾られていて、町の人々が石薬師宿をいかに一生懸命PRしているか心配りを感じた。

民家の塀
石薬師宿案内板
小澤本陣跡
ご当主と根津講師

当時の食器・陶器
宿帳(浅野内匠頭) 宿帳

さらに進み石薬師小学校を過ぎると石薬師文庫敷地の電柱の脇に「距津市元標へ九百四町十七間」と刻まれた石柱の道標がある。この道標は津市元標までの距離を表し、大正時代に道路元標が各市町村に設置された時のものである。
その先には佐々木信綱資料館と、その正面右に隣接して木造建物の信綱の生家・蔵、文庫がある。歌人で国文学者でもあり、第一回文化勲章受章者の信綱(1872~1963年)は弘綱(江戸末期の国学者)を父としてこの地で生まれた。
記念館には文化勲章をはじめ多くの遺品、著書、原稿など2000点が収蔵されている。学芸員さんから詳しい説明を聞いた。
生家は信綱が明治10年に一家が松坂に移住するまでの幼年期を過ごした所で、庭には信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に詠われた卯の花(ウツギの木)が植えられている。


住民台帳
金杯 太刀を構える 佐佐木信綱文庫 佐佐木信綱生家 佐佐木信綱資料館

記念館を過ぎると道は下り坂となり400mほど行くと1号線を跨ぐ瑠璃光橋があり、渡るとすぐ右に石薬師寺の看板が立っている。右に入ると「西国薬師第三十三番霊場」「高富山 瑠璃光院 石薬師寺」の表札がかかった山門があり、門からは階段を下り、寺院に行けるようになっている。

以前から気にしていた寺の山号・院号、寺号の意味合い(順序)を理解できた。ちなみに今日の〆の見学地となった、地福寺ご住職の法話にも「山・院、寺号」のお話があった。

石薬師寺は、聖武天皇時代に泰澄によって開かれた寺で東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したという。総檜造りの本堂があり、江戸時代初期の桃山様式で、1629年(寛永6年)に神戸城主一柳監物直盛により再建された。

石薬師町の地名にもなった石薬師寺は真言宗の寺院で、ご本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている高さ190cmの薬師如来で、花崗岩の自然石に浅く線彫りされている。なんと幸運なことに明日は「ご開帳」の日である事、根津講師・下山TDのサプライズでこれを見ることができる。

初めての経験でもあり楽しみである。石薬師寺を出て蒲冠者範頼の祭られている御曹司社、その南60mほど先にある範頼縁の蒲桜(山桜の一種)」が冬空に聳えていた。

石薬師寺山門 本堂 庭園 御曹司社 石薬師の蒲桜
石薬師の一里塚

街道に戻り、道は下り坂で南に進み、約300m行くと右に曲がり鈴鹿川支流にかかる浦川橋を渡る。橋を渡ると左折し、そのすぐ先にある石薬師一里塚跡碑を見ながら進みJR関西本線のガード下を潜って右折する。

田畑の道を関西本線の沿って歩き、1号線のガード下を潜って左折して1号線と合流して進む。石薬師一里塚から約1.5Km歩くと鈴鹿川支流にかかる宮戸橋に来る。ここからは庄野宿は近い。

 江戸日本橋から庄野宿まで400.9Km 石薬師宿~庄野宿間2.7Km  石薬師宿から庄野宿までは2.7Km
東海道で2番目に短い。

庄野宿:東海道で最も遅い1624年(寛永元年)に設置されたが、石薬師宿と同じように宿の経営は苦しく当初、継立
人馬は100人、100匹と定められていたものを、1758年(宝暦8)には30人、20匹と減らしてもらっている。
現在の庄野町は鈴鹿川左岸を走る国道1号線とJR関西本線に挟まれたひっそりした町で、町並みも古い建物の多く
残されていて昔の面影を感じられる。
本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:15軒
 
 庄野白雨

宮戸橋を渡り国道1号線と合流して、鈴鹿川を左に見ながら南西へ500mほど歩いて庄野町北信号から右折して狭い下り坂道を進んで、100先の最初の十字路を左折すると庄野宿に入る。右角の空地に庄野宿案内板と東海道庄野宿立柱があり、ここが宿入口であることを示している。

先に進むと左に木造の庄野町資料館と玄関には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている。ここはもと菜種油屋の建物で宿場関係資料や農機具・生活用品などが展示されているが本日休館であった。町並みには古い建物が多く昔を偲ばせてくれる。

少し歩くと右の建物に問屋場跡標識が掲示されている。問屋場は御伝馬所ともいい街道宿場にとって重要な役所であった。

その先へ行くと十字路があり、手前の右角に庄野集会所の建物があり、その前の右端には庄野本陣跡碑、左端に距津市元標九里拾九町石標がある。

この石標は津市元標までの距離を表し、大正時代に道路元標が各市町村に設置された時のものである。

鈴鹿山脈 庄野宿入口(案内板) 庄野町資料館
(旧小林住宅)
問屋場跡案内板
本陣跡碑

距津市離原標

さらに道を横断した右角には高札場跡標識が立っている。

高札場は法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに1ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためにあった。この地は川の分流、分岐が多い土地で、川俣神社が多くある。その一つには県指定天然記念物幹囲5m、樹高11m推定300年といわれるスダジイ古木が青空に聳えている。

高札場案内板 会所跡案内板
川俣神社

川俣神社
スダジイの古木

庄野宿・西木戸

神戸領石柱

しばらく歩いて1号線を横断する手前に十字路の角に東海道庄野宿標識がある。ここが西の宿入口である。

その先で1号線と合流する。横断して反対側に出て1号線から別れ西へ進んで行くと、右側に山の神碑と従是東神戸領石柱があり、道を挟んだ反対側には、従是東神戸領石柱と女人堤防碑(昭和33年建)がある。

この辺りは鈴鹿川と支流安楽川の合流点で、たびたび氾濫して水害に苦しめられていた。農民たちの堤防修築の願いも叶うことなく、1829年(文政2年)頃、苦しみに耐えられなくなった約200人の女性たちは打ち首を覚悟し、暗夜を選んで工事を続け、6年の歳月をかけて堤防修築に成功した。女性たちは一旦処刑場に送られたが赦免の早馬で救われたという。

女人堤防碑から鈴鹿川を左に見ながら約700m行くと左側に中富田町の川俣神社があり、その境内に中富田一里塚跡碑とその右に従是西亀山領石柱が立っている


神戸領石柱
女人堤防碑 女人堤防
中冨田一里塚跡碑
中富田一里塚
川俣神社

さらに川俣神社から700mほど行くと西富田町になり、また川俣神社の鳥居があり、ここも道の反対側が神社正面となっている。神社の作りもよく似ている。鈴鹿川に沿って同一名称の川俣神社が6社あり、鈴鹿川が股のように分流するか合流するところに建てられた神社である。

西富田の川俣神社境内には、神戸城主織田信孝が愛飲した無上冷水井跡石柱、北緯三四度五二分一四秒、東経一三六度三〇分二五秒の座標石柱がある。また常夜燈の脇に「いずみはし」と刻まれた石碑があるが、旧東海道の鈴鹿川にかかっていた橋の名残でもあるのだろか。

川俣神社の前を直進して鈴鹿川を横断するのが旧東海道であるが、現在は橋がないため左折して迂回し和泉橋を渡り、旧東海道に戻る。

川俣神社鳥居 安楽川
地福寺参道
地福寺・ご住職
JR関西本線
井田川駅

今回の宿・大正館

旧東海道に戻り約600m行くと小田町となり右手の階段の上に、地福寺がある。本殿に上がり、ご住職の話を聞いた。その昔、道心が修行したところで七堂伽藍があった寺であったが、1568年(永禄11年)に織田信長の戦火にあい消失した。その後1677年に各誉上人の発願で観音堂が再建され、中には代々の亀山城藩主が帰依している阿弥陀如来が安置され、その両側には33体の観音菩薩が並んでいる。毘沙門堂には高さ1.6mの青銅製の毘沙門天が祀られている。地福寺さんでは数珠をいただき、おみくじを引いた・・めったに出ない「凶」であった。地福寺から250m程でJR関西本線の踏切を渡ると鈴鹿市から亀山市になり亀山宿へ向かうことになる今日のゴールであるJR井田川駅はすぐ近くである。
駅舎と思ったのは待合所のようで駅名の看板はなかった。

今日の作品


紅葉・梅

近鉄内部駅にて

冬枯れ・からすうり

睡蓮鉢・冬

紅葉・紅葉
紅葉・楓



今日のコースは 近鉄内部駅→内部川(内部橋)金毘羅堂杖衝坂(つえつきさか)史蹟杖衝坂碑芭蕉句碑二つの井戸→血塚社→采女町交差点北町地蔵堂
 
大木神社小沢本陣跡薬師小学校石薬師文庫→佐佐木信綱の生家佐佐木信綱資料館瑠璃光橋石薬師寺→御曹司社→蒲桜→浦川橋(鈴鹿川)
 
石薬師一里塚跡碑宮戸橋(鈴鹿川支流)庄野宿案内板((庄野宿)庄野町資料館(旧小林住宅)問屋場跡標識庄野本陣跡碑距津市元標高札場跡庄野宿
 標識
山の神碑東神戸領石柱女人堤防碑鈴鹿川・支流安楽川川俣神社中富田一里塚跡碑亀山領石柱地福寺JR関西本線井田川駅


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第30回 四日市宿~亀山宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                 12月20日 亀山宿
  

 石薬師宿から
 庄野宿へ
 石薬師石薬師寺