この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
 
 ①より
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
 ①へ
 四日市三重川
2012.12.18 冨田~諏訪神社~日永追分・内部    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           

12月18日(火)

今回のスタートはJR冨田駅からである。右に近鉄名古屋線、左にJR関西本線に挟まれた富田の町並を600mほど歩き、丁字路から右折して300m行くと十四橋に出る。橋の手前の左側に国指定重要文化財で鎌倉中期の作「阿弥陀如来立像」が安置されている善教寺がある。目黒川を小規模にした雰囲気を感じる十四川堤の桜並木を眺め、十四橋を渡る。橋から20mほどの十字路の角に常夜燈がある。このように町の中や街道にある常夜燈はそれぞれ意味をもって設置されていて、桑名川口より伊勢までは神宮への道先案内の役目を果たしていたと言う。小さな明かりが夜の街道を照らす様は、今の旅人には感じることはできない。表には常夜燈と刻まれ、その下に氏子中とある。裏には天保十已亥年(1839年)と刻まれている。

善教寺 ご本尊案内板
地蔵堂

十四川桜堤

常夜灯

その先、左に薬師寺がある。51代平城天皇の大同年間(806~910年)の頃、このあたりで疫病が流行して人々は大変苦しんでいた。それを旅の途中で知った弘法大師は、ここで足をとめて薬師如来像を彫り開眼した。するとたちまち人々の難病は平癒していった。人々は弘法大師に感謝しお堂を建てて薬師如来像を祀った。その如来像は現存し、秘仏として扉をあけることはないという。この薬師寺はこの地域、唯一の尼寺である。
根津講師のサプライズでご住職(尼さん)の話を聞くことができた。呼吸法・食事、日常の過ごし方の話など身に抓まされる思いを感じたが、果たして改善できるか・・得度された方のお話に説得力がある。ちなみに71歳のご住職はとても美しい方であった。
その先に行くと道は丁字路になり、正面に力石がある。明治の中頃、この村の二ヶ寺のお堂を再建するにあたり、各所から土台石の奉納があった。
その折、土台石の中からこの石を選び、休憩時に体力を試すため持ち上げを競いあったという。大きい石は120Kg、小さい石は19Kgと案内にあった。


薬師寺山門

薬師寺ご住職

薬師寺地蔵様
力石
茂福神社

その先を右折し400mほど行くと高架の富田山城有料道路が見え、古い時代の灯篭が並ぶ茂福(もちぶく)神社がある。
有料道路手前には大きな常夜灯が立っている。高架道路の下を横断し、400mほどのところに一本の大きな松(河原津の松)が聳えている。
600mほど歩くと右側に鳥居があり、下には夫婦和合のご利益がある石が鎮座している。その先、近鉄線の踏切を渡った先に大きな古墳があり、その中に三重の昔話(民話)に出てくる「足を折られた狛犬」(志野焼)、境内古墳から出土品が展示されている氏氐(しで)神社がある。街道から離れての神社を見学できたのもツアー(講師)ならではある。街道に戻りすぐ右側には光明寺がある。四日市は寺の多い街と実感する。


常夜灯

河原津の松

氏氐神社鳥居
和合の石
氏氐神社 足を折られた駒犬
(足は接着修復)

丁字路を左折すると国道1号線と合流する。道路左側には「元祖なが餅」の看板が見え、斜向かいの笹井屋支店で我々のために用意していただいた、お茶となが餅をいただく(他のお客さんには試食はなかった)。小豆の餡が旨かった。お土産に一折注文する。
1号線を700mほど進み、道標を左に入り、多度神社を過ぎて海蔵川の手前に街道99番目の「三ツ谷一里塚」の石碑がある。「三ツ谷一里塚」は旧道に入らず(国道を直進してししまうため)
見逃す人が多い(歩きの仲間からの注意)と聞いていた。

古墳出土品・氏氐神社蔵 光明寺 笹井屋支店
元祖長餅
多度神社
三ツ谷一里塚

当時は土橋が架かっていたが、現在は橋がないため、上流側に迂回して1号線の海蔵橋を渡る。橋を渡るとすぐ左折して旧東海道に戻り、南へ向い、海蔵橋から約700mのところで三滝川にかかる三滝橋に辿り着く。三滝橋は広重の「四日市三重川」で知られている。橋を渡ると、この辺が四日市宿の入口となる。
三滝橋を渡るとすぐ左側に元祖なが餅で有名な笹井屋がある。創業は1550年(天文19年)の戦国時代とのこと。三滝橋から約500m行った仏具店のところで十字路になり、その右角に「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」「文化七庚午冬 十二月建」と刻まれ、また文字だけなく手の絵も添えてある手差道標が立っている。この辺りが宿場の盛り場であったという。

三滝川・上流方面 三滝川・下流方面 三滝橋(広重の場面) 笹井屋本店
本陣跡(場所のみ)

道標から右折すると1号線で遮断されていて、旧東海道は反対側の赤い建物の右側の道を入る。1号線を横断して旧東海道に戻ると、そこはアーケード街の諏訪栄商店街でその入口の右に諏訪神社がある。
「おすわさん」と呼ばれ、親しまれ、商業・漁業の神として古くから崇拝されていて、ここの諏訪神社は1202年(建仁2年)信州諏訪上下両社を勧請したと伝えられる。境内には大きなご神木が聳え立っている


道標
諏訪神社
東海道の今

丹羽文雄生誕の地
石碑

軒先の鐘

アーケードを抜けるとすぐ中央分離帯のある大通りを横断して浜田町へ入り、約500m行った左の浜田郵便局の手前に丹羽文雄生誕之地碑がある。丹羽文雄はここの崇顕寺で生まれ少年期を過ごした。敷地内は浜田幼稚園となっている。民家の軒先を想わせる2階の角には梵鐘がさがっている。

街道の旧家 鈴木薬局 大宮神明社
旧家の塀
興正寺

道はゆるく右へカーブし近鉄名古屋線の踏切を横断して500mほど行くと、近鉄内部線がありその線沿いに旧東海道は南に続く。赤堀の町並みを通り、内部線あかぼり駅を過ぎた、右側に鈴木薬局の立札のある古い建物がある。膏薬の製薬を200年以上も営む旧家で、代々勘三郎の名を受け継いでいて、現在の当主鈴木友造勘三郎氏は、11代目となる。この建物は東海道沿いの古い建物の中でも一際目立ってがっちりつくられていて、1852年(嘉永5年)に建てたもの。膏薬を作った作業場や薬研など貴重な道具が保存されている。

日永神明社
街道最古の道標
(日永道標)
実連寺
日永一里塚

名残の松

その先の鹿化(かばけ)川にかかる鹿化橋を渡り、大宮神明社・興正寺・つんつく踊りの案内板のある両聖寺、街道で一番古いといわれる追分道標(移転されたもの)のある日永神明社、約800mほどの間のも多くの寺社仏閣がある。天白川にかかる天白橋に来る。

天白橋の先、案内板の左奥に入ったところには織田信長の家臣滝川一益の母の墓のある実蓮寺がある。

250mほど先、民家と黒塀に挟まれた狭いところに街道100番目の日永一里塚跡の石碑が少々傾いて立っている。
南に歩き天白橋から約1.5Kmの日永5丁目に来ると、左側に高い松の木が1本だけ見える。
昔はこの辺は道の両側に立派な松並木続いていたが、現在はこの松が唯一昔の面影を残す「名残の松」だけになったという。

日永追分
道標と灯篭

東海街道
日永の旧家
観音寺
観音寺・観音堂

その先の十字路を横断し、南へ約1Kmのところの東海道(右)と伊勢街道(左)の分岐点は日永の追分で、高さ7mもの鳥居と道標の石碑がある。鳥居は道が拡幅される前、伊勢街道を跨いで立っていた。この鳥居は1774年(安永3年)久居出身の渡辺六兵衛という者がここから伊勢神宮を遥拝できるようにと、建てたものであり、鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせ20年ごとに建替えられることになっている。

道標には「左いせ道、右京大阪道、すぐ江戸道、嘉永二年己酉春二月桑名魚町尾張屋文助建立」と刻まれている。
多くの緑樹の中、常夜燈が一対、現在も神水が湧き出ている水屋では地元の人が水汲みをしていた。我家も煮炊き・飲料水は馬来田の山本の殿の井戸まで水を汲みに行くので何故か親近感を感じた。
日永追分は四日市宿と石薬師宿の間にあり「間の宿」と言われ、本宿より安く宿泊できることもあり旅籠は茶店も多く賑わっていた。

追分から旧東海道は1号線と合流し300mほど南西に進み、近鉄内部線追分駅の踏切を渡るとすぐ道は分岐する。ここで1号線と別れて左手の道に入り小古曽(こごぞ)の町並みを進んで行く。学校帰りの子供たちの元気な「挨拶」が静かな町の中に響いている。

500m程歩くと大蓮寺の隣に禅宗の一派である黄檗宗の観音寺がある。黄檗宗特有の山門・本堂、薄い夕暮れの陽に照らされた観音堂の白壁が美しかった。その先、道路から一段下がったところに近鉄線の内部(うつべ)駅の可愛らしい駅舎が見え、ここが今日のゴールである。


本日の作品


地蔵様・薬師寺

氏氐神社にて

山門と松

鐘楼(柱と梁)


千両



今日のコースは JR冨田駅十四橋・桜堤善教寺常夜燈薬師寺力石富田山城有料道路→茂福(もちぶ)神社→河原津の松→志氐(しで)神社→
 光明寺→笹井屋支店→
多度神社→三ツ谷一里塚→海蔵橋(海蔵川)三滝橋(三滝川)笹井屋→道標→諏訪神社丹羽文雄生誕之地碑赤堀町
 
鈴木薬局鹿化(かばけ)橋(鹿化川)→大宮神明社→興正寺→天白橋(天白川)→両聖寺→日永神明社→実蓮寺→日永一里塚→河原津の一本松日永の追分
 →小古曽・大蓮寺→観音寺→近鉄内部駅



 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第30回 四日市宿~亀山宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                       12月19日 石薬師宿・庄野宿へ

江戸日本橋から四日市宿まで387.5Km、 桑名宿~四日市宿12.6Km                    

四日市宿:四日市は、市場港から発達した。市場は浜田城築城のおり整備され文明年間
(1469~1487年)には5ヶ所で市が開かれていた。
その後、永徳年間(1558~1570年)に毎月四の日に市が開かれるようになり、それが
地名となったという。また、伊勢参詣の分岐点としても賑わった。
東海道43番目の宿として賑わっていた江戸j時代には、海上10里の渡しで尾張国宮の宿
まで舟の便があった。
本陣:2軒、脇本陣:1軒、旅籠:98軒