この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2012.11.29 桑名宿~冨田一里塚    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
 桑名七里渡口

11月29日
桑名宿:桑名を開発したのは天照大神の子孫と伝えられている豪族、桑名首(くわなおびと)だと言われている。平安時代以降は桑名神社を中心とした「十楽の津」と呼ばれ、楽市が開かれ商人の港町として発達した。

江戸時代には城下町とともに、木曾、揖斐、長良の河川の合流する水陸の要衝として、物資流通の中継基地として繁栄した。
七里の渡し場にある大鳥居は、ここから伊勢国であり、旅人にとってはお伊勢参りの出発点という意味もあり、従って伊勢一の鳥居とも称している。
桑名の町は、江戸時代1701年(元禄14年)、1719年(享保4年)の2度の大火に見舞われて城下町は殆んど消失してしまった。さらに明治維新の戦いで城は破壊され、太平洋戦争で戦災にあい、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で大被害を蒙ったりして、昔の面影は全くなくなしまった。
本陣:2軒、脇本陣:4軒、旅籠:120軒


街道歩きの三日目は、宿から桑名までバス楽々移動(昨夜は飲み過ぎで朝一のバス移動は楽である)・・宮の対岸桑名側の七里の渡しがスタートである。

朝一の見学先は海蔵寺である。海蔵寺には、桑名市指定史跡である薩摩義士墓所があり、宝暦治水事件で犠牲となった平田靱負(ゆきえ)ら薩摩義士が祀られ、21基の墓石が現存する。朝早くの参拝・見学にも笑顔で応対、丁寧な説明をしてくれたご住職(奥様?)には感謝である。

宝暦の治水:1753年(宝暦3年)、徳川幕府琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたと言う)。
この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。
薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。分流工事は着工より1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、平田は藩への多大な負担の責任を取り自害、享年50歳であった。辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。
鹿児島では「平田靱負」は小学校の道徳の副読本に掲載されており、その名を知らない人はいないと言っても過言ではない。また、岐阜県及び愛知県の郷土史および道徳の副読本にも宝暦治水のくだりでは中心人物として取り上げられており、その知名度は高い。

海蔵寺 平田靭負本殿 治水工事の絵図 工事絵図 平田靭負・義士」の墓 六華苑

再度バス移動で揖斐川河口まで行く。だだっ広い・・が印象である。遠くに球体が連なった水門、かろうじて長良川が見える。河口近くの六華苑を道路から遠巻きに見学する。
六華苑:実業家二代目諸戸清六の新居として明治44年(1911年)に着工し、大正2年(1913年)に竣工した邸宅は、洋館とそれに連なる和館、複数の蔵などの建造物と池泉回遊式日本庭園を持ち、総面積は18,000平方メートル余に及ぶ(ウィキペディアより)。
洋館の設計者は、雇れ外国人として来日し、政府関連の建物の設計を多く手がけ たイギリス のロンドン出身の建築家「ジョサイヤコンドル
」である。

揖斐川・水門
七里の渡し

渡し跡
九華公園(桑名城址)
蟠龍櫓

蟠龍(アップで)

広大な河口持つ揖斐・長良川を眺める、広すぎて写真も河口の大きな水門が写っただけである。堤防沿いに七里の渡し跡に向かう。住吉神社を右に見て、正面には九華公園の一角に復元された蟠龍櫓が見える。この辺りまで来ると体調もかなり落ち着ついてくる・・
海に面した桑名城の現在は九華公園となっており、中心には「柿安」のビルが建っている。石垣が美しい渡し場跡、その先には白壁の「蟠龍櫓」が復元されて、往時は51もあったと言う櫓も現在はこの櫓が復元されているのみである。


七里の渡し碑
山月(脇本陣跡) 船津屋(本陣跡) 歌行燈の碑
街道の案内板
案内板

渡し場の脇の道路に入った所には脇本陣跡の割烹旅館山月、大塚本陣跡の船津屋(現在は割烹料理店)がある。船津屋の一角には「歌行燈の石碑」がある。(現在は割烹料理店)がならんでいる。船津屋は現在も当時の面影を残している。

九華公園:桑名城はその形から「扇城」と呼ばれていた。「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていた。これは中国で九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけ、名づけられたということである。桑名城は鎌倉時代初期に桑名三郎行綱が築城したのが最初で、その後いろいろな武将が入城するが関ヶ原の戦いで西軍についたため徳川家に没収された。本田忠政が城主の時、大阪城から救出され桑名城に立ち寄った20才の千姫に、忠政の子忠刻が一目惚れして強引に結婚し、桑名城へ入城させたという話もある。
七里の渡し場跡を後にして旧東海道を南へ歩くと、東海道マップには左手に丹羽本陣跡の標識などがあることになっているが、見当たらなかった。左側の住宅の裏は堀で何本もの橋がかかっている。そのうちの1本である北大手橋を対岸より写真を撮る。江戸町入ると堀には赤い橋が架かっていた。

北大手橋
運河の石垣
桑名城石垣 通し井戸案内板
春日神社鳥居

しるべ石

「通り井戸」」の火がある。桑名の水は塩気が強く飲料に適さないため町屋川からの水同を引いた・・昔の水道である。
その前には春日神社青銅製大鳥居と左足元にしるべ石がある。「勢州桑名に過ぎたるものは 青銅鳥居に二朱女郎」とうたわれた大鳥居で1667年(寛文7年)に建立された。しるべ石は明治18年の建てられたもので、当時の人を探すための伝言板であった。正面「志るべい志」、左面「たずぬるかた」、右面「おしゆるかた」と刻まれている。
街道歩き(東海道)の第一回目の歩き始めの時、一石橋脇に「迷子知らせ石碑」があった事を思い出した。

春日神社の本殿は左側が中臣神社(春日大明神)、右側は桑名神社(三崎大明神)が祀られている。


山門
本殿 左:中富神社
右桑名神社

石取会館
石碑
石取祭山車
展示資料

春日神社の鳥居の前の道を堀に向かい右折50mほど行くと「歴史を語る公園」がある。日本橋から三条大橋まで東海道を模したミニチュア公園である。
三条大橋での”万歳!”誰でもしそうである。その先3ッ目の角に「石取り祭り」の山車(三輪車)、祭りの資料、パネル、現物の鐘・太鼓を展示してある資料館、石取会館がある。日本一うるさい(太鼓と鐘)といわれる石取祭り・・展示の鐘太鼓をたたくと狭い部屋に鳴り響く音、大太鼓は腹に響き、鐘は耳に響く・・
この屋台が20~30基連ね練り歩く・・本当にうるさいであろう。はのから200mほど行くと丁字路になり、左は南大手橋へ行くが反対に右折して桑名市博物館脇を通って広い京町通りを横断して、最初の丁字路を左折してよつや通りが旧東海道である。
吉津屋通りを通って約300m行くと勤労青少年ホーム敷地角に宿の出入口である吉津屋見附跡碑がある。街道は道標により案内されており分かり易い。


街道案内道標

吉津屋見付
十念寺・山門 森陣明・案内板
天武天皇社
拝殿

現在、この地は鍛冶町となっているが、江戸時代初めは吉津屋町に属していたので、吉津屋見附と呼ばれていた。見付け跡を過ぎてからちょっと迂回する形で左折して100mほど行ってから、右折して京町通りに並行している寺町通りに出る。名前の通り数多くの寺が道の右側に並んでいる。
桑名の旧東海道
周辺は江戸・宮通・職人・内堀・紺屋・京橋・寺町・鍛冶・鍋屋、伝馬町等時代を残す町名が残っていた。

吉津屋町、鍛冶町と進み、新町に入ると十念寺がある。十念寺は明治維新に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して44歳で切腹した、森陣明(もりつらあき)(1826~1869年)の墓がある。
伝馬町から新町、日進小学校前の交差点を東鍋屋町方向に行くと「石取祭車蔵」の先、
右に天武天皇社がある。壬申の乱(692年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐在されたことにちなみ建立された神社で、天武天皇を祭祀する神社として全国唯一とのこと。天武天皇は、大化の改新とそれに続く内政外交上の大変革期に成長して、白村江敗戦後国政の表にたち、壬申の乱に勝って第40代天皇となった。鋳物の町の守り神「一目天神社」がある。初めて聞く名前の神社である。東矢田町に入ると梵鐘店があり、店(中川梵鐘店?)の中には大きな梵鐘が3口(こう・くと数えるらしい))並んでいた。店内には銅像もあったが・・これだけで商売になるのか?


一目天神社鳥居
中川梵鐘店
矢田立場
了順寺黒塀 江原松原跡案内板
城南神社鳥居

西へ進み西矢田町へ進み、国道1号線を横断し、少し歩くと道は丁字路になり、その右角に復元された火の見櫓の矢田立場がある。
東海道一里塚ウオーキングガイドの写真はモノクロで趣のある風景だったが、火の見櫓は復元されたもので真新しかった。ここの出案内板で桑名宿の見付の位置が示されており「吉津屋見附」から話されていた宿場の範囲(西側の見付位置)が説明され一件落着となった。

旧東海道はここを左折して真っ直ぐな道を南へ進む。500m程歩くと了順寺の黒塀が眼に入る。工事中で拝観は無理であった。山門は桑名城の物と言われているが工事用の天幕で覆われ見ることはできなかった。
この辺は江場松原跡で、民家は全くなくて松並木となっていて西には鈴鹿山脈、東には伊勢の海が見えるとても景色のよいところであった。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風のころまでは松並木も残っていたが、現在は家が立ち並び松は1本も残っておらず石碑が一本立っている。
国道258号線高架脇には常夜灯が立っていた。高架下を通り、静かな安永の町並みを見ながらさらに南へ進む。


伊勢神宮常夜灯
町屋橋公園
案内板
町屋川 文学と町屋川
案内板

縄生一里塚

何故かアップが
似合った

町並みの終わりの一段高い位置に、伊勢神宮常夜燈と里程標がある。さらに20mほど直進すると小さな公園があり町屋橋跡の案内板が立っている。、昔はここから対岸まで町屋川に橋がかけられていていたが、現在は下流へ架け替えられている。
公園脇の料理旅館「すし清」三が今日の昼食会場である。
下流側に迂回して現在の町屋橋を渡ると、中間地点で桑名市から三重県朝日町に入る。町屋橋を渡ると堤防沿いに右折し、左折して旧東海道に戻る。町屋橋を渡り切った所には「文学のなかの町屋川橋と橋」の案内板がある。500mほど行くと左側に江戸から97番目の「縄生一里塚跡碑」がある。

さらに約600m行き近鉄名古屋線いせあさひ駅の踏切を渡ると、右側に東芝工場があり、工場の道の反対側の一角に公園のよう整備された場所がある。小さな案内板と瓦には「ハマグリを焼く」絵が描かれていた。

踏切を渡って約1Km道なりに進むと十字路があり、右側に小向神社の石碑、、旧東海道は直進する。少し行くと右に浄泉坊がある。1603年(慶長8年)に伊勢慶昭が正治寺を再興し小向山浄泉坊と改称したのが始まりで1638年(寛永15)年に西本願寺から寺号の公称を許された。

徳川家ゆかりのある桑名藩主奥方の菩提寺でもあったため、山門や瓦に徳川家紋章の三つ葉葵が入っていて、参勤交代の大名はこの寺の前で駕籠をおりて一礼したという。


名鉄・いせあさひ駅
焼き蛤の図 瓦にも・・
小向神社石柱
淨泉坊・鬼瓦 山門

すぐ先には無住職の西光寺がある。イチョウの黄葉が見事であった。道なりに進んで行くと浄泉坊から約500mで道は丁字路になるので、左折する。
人家の殆どない道を歩き続けると桜並木に来る。朝明川にかかる朝明橋手前で朝日町から四日市市に入る。
朝明橋か
500m程行くと「松寺立場跡」の案内板が民家の敷地内に立っている。更に500m程進むと「鏡ヶ池(笠取り池)」跡の案内板が民家の敷地内に立っている。聖武天皇の遺跡で、又の名を「笠取り池」と呼ばれた。由来は、この地を通りかかった時、天皇の笠が風で飛ばされ池に落ちた。これを傍らで洗濯をしていた娘が拾い、その縁で旧家田村家に泊まられた。翌朝は風も無く池は鏡のように周りが水面に映り一幅の絵を見るようであったことから鏡ケ池と名付けられた。

本堂 西光寺
常夜灯
松寺立場跡 鏡池跡
冨田一里塚

この案内板から関西本線の踏切を渡り1Km程歩くと冨田の一里塚跡碑が右側に立っている。この先、旧街道を右に入り30m程行くとJR冨田駅で、今回のゴールである。

11月下旬の街道歩きは多くの寺社を訪ねた。その寺社では紅葉がが真盛り・・街道歩きのプラスαの楽しみを与えてくれた。(順不同)


桶狭間公園・紅葉

高徳寺・竹林と紅葉
千鳥塚・紅葉 千鳥塚・欅 東光寺・紅葉 東光寺紅葉

笠覆寺・桜

笠覆寺・紅葉
有松の街並・笹 有松の街並
蓮と有松絞り
西光寺・イチョウ 熱田神宮・紅葉

熱田神宮・山茶花 熱田神宮・紅葉 街道筋・お茶の花 熱田神宮・紅葉
楠・寄生木

西光寺・イチョウ



今日のコースは 海蔵寺→六華苑→揖斐川堤防→住吉神社→七里の渡し場蟠龍櫓・桑名城址(九華《きゅうか》公園)山月(脇本陣跡)・船津屋
 (大塚本陣跡)・歌行燈の碑
→舟会所跡碑・問屋場跡碑北大手橋通り井跡碑春日神社青銅製大鳥居しるべ石・春日神社吉津屋見附跡碑十念寺
 
天武天皇社火の見櫓・矢田立場→了順寺→江場松原跡伊勢神宮常夜燈町屋川(町屋橋)冨田一里塚跡碑→いせあさひ駅東芝工場
 
小向神社石碑→浄泉坊朝明橋(朝明川)→松寺立場跡→鏡ヶ池跡→冨田の一里塚跡碑→JR冨田駅

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第29回 知立~桑名宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師