宮熱田神事
この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

江戸日本橋から宮宿まで347.6Km  鳴海宿~宮宿6.5Km

宮宿:宮とは、熱田宮すなわち熱田神宮の略で熱田宿ともいう。熱田神社の門前町で、公的な文書では「熱田」とある。尾張藩では熱田奉行をおいて支配していた。桑名宿への七里の渡し場、脇街道である佐野路・美濃路への分岐点、さらに62万石城下町名古屋への表玄関として街道随一の規模であった。               なお里程は、東海道桑名宿へは海上7里、佐屋路の岩塚宿へは2里、美濃路の名古屋宿へは1里半であった。
本陣:2軒、脇本陣:1軒、旅籠:248軒

熱田神宮:伊勢神宮につぐ由緒ある大社で、ご神体は日本武尊ゆかりの草薙剣。神域は19万㎡と広く、樹齢1000年という楠などの大木が多数あり、大都会の静かなオアシスとなっている。境内には名古屋最古の石橋で25枚の御影石で造られたという「二十五丁橋」、鉄砲の弾も通らないという瓦葺の「信長塀」、高さ8.25mの巨大な佐久間燈籠などがある。

七里の渡し:伊勢湾で挟まれている宮宿と桑名間の7里の距離の海上渡船のことである。朝の一番船は午前4時(明け七つ)で、暮れは七つ(午後4時)で停止された。したがって午後4時以降に宮宿へ着いた旅人はどうしても宿泊せざるを得なかったことも、旅籠の数が多い理由になっていると言われる。
宮から桑名宿までの海上の所要時間は、2時間とか4時間とか7時間もかかったという記録があり、天候などにかなり左右されたと思われる。海路を嫌う人は伝馬町道標で右折して名古屋へ向かい、木曽川左岸の佐屋に出て、それから川舟で3里下って桑名へ行った。

天白橋を渡り、西へ400mほど行き北西へ方向を変えた道の右側に笠寺一里塚がある。名古屋市内で現存する唯一つの一里塚で、高さ3m、直径10mの円丘上に2,6m高さの榎がある。


笠寺一里塚

東光寺山門

笠覆寺(笠寺観音)
本堂 抱き地蔵
千鳥塚・武蔵の碑

住宅街の中を北西へ約400m行くと、右側に笠寺観音で知られる笠覆寺がある。笠覆寺参拝の前に左側の道200m程先にある東光寺による。山門から美しい紅葉が見える。宮本武蔵が逗留したと言われる寺で、遺品が多く保存されていると案内にあるが展示見学はしていないとの張り紙があった。
笠覆寺は733年(天平5年)創建で禅光上人作の十一面観世音菩薩が安置されている。初めは小松寺と称したが円延長年間(923年~)に藤原兼平が堂宇を再興し今の寺号になった。現在の本堂は1763年(宝暦13年)に建てられたもの。重要文化財が多くある。境内には暁台塚、翁塚、春雨塚、宮本武蔵の碑などがある。寺の門前にある笠寺商店街を通って北西に直進して約400m行って名鉄名古屋本線の踏切を横断した先の交差点から右折して北へ進む。右折したあたりから、町名が「呼続」となり何と呼んだらよいか戸惑ったが、素直に「よびつぎ」でよいとのこと。
閑静な町並みで寺院が多い道を400mほど行くと、前面は「東海道」、左に「富部神社 塩付街道」の道標が左側にある。


多宝塔
冨部神社
鎌倉道道標
道標 白毫寺
あゆち潟の碑

さらに進むと、角に東海道と鎌倉街道の道標がある。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名となったと言われる。左側に入って突き当りに年魚干潟(あゆちがた)景勝地、白毫寺がある。寺は松巨島の北西部に位置し高台地の下は「年魚市潟」と呼ばれた景勝地であった。芭蕉が寺を訪れ詠んだ「春風や戸部山崎のやねの苔」の句碑、歌碑、景勝地の石碑が残っている。
また「呼続」の地名は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから、「よびつぎ」の名前があると言われている。 街道に戻り少し先に行くと山崎川にかかる山崎橋に出る。
閑静な町並みで寺院が多い道を400mほど行くと、前面は「東海道」、左に「富部神社 塩付街道」の道標が左側にある。


道標

伝馬町一里塚
姥堂・裁断橋
都都逸発祥の地碑
都都逸発祥の地碑
道標

ほうろく地蔵堂

山崎橋を渡るとすぐ左折して西へ進み、松田橋交差点では高速道路の通ると約300m先に内浜交差点がある。左側の側道を通ってJR東海道本線を渡ると道が分岐するので左手に入る。左の道の少し先に熱田橋がありこの辺から宮宿に入る。熱田橋を渡り名鉄のガード下を潜ると右側に伝馬町一里塚、その西側に姥堂がある。前の左階段脇には裁断橋址碑が、右階段脇の奥には都都逸発祥之地碑がある。
姥堂は1358年(延文3年)に法順上人が創建し、本尊姥像は熱田神宮から移したと伝えられている。昭和20年の戦災で堂宇、本尊とも消失したが、姥像は高さ8尺もある坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にすると里謡に歌われたほどであった。昔から「おばんこさん」と親したわれていて、現在の本尊は平成5年に写真をもとに四尺の大きさに復元した像である。
裁断橋は、宮の宿の東はずれを流れる精進川に架かっていた。1590年(天正18年)に18歳になる我が子を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架替えを行った。その後母親が亡くなったため養子が1622年(元和8年)に建替えているが、この橋を有名にしているのはその宝擬珠に彫られた銘文(名古屋市博物館に保管)で、母が子を思う名文としてこの橋を渡る人に多くの感銘を与えた。
銘文は次のとおり。「てんしやう十八ねん二月十八日にをだわらへ御じん、ほりをきん助と申す十八になりたる子とたゝせてより、又ふためとも見ざる悲しさのあまりに、いもこのはしをかける成。母の身にはらくるいともなり、そくしんじょうぶつし給へ。いつがんせいしゅんと後の世のまたのちまで、此かきつけを見る人は念仏申給へや。卅三のくやう也。」
都都逸発祥之碑は、1800年(寛政12)年ころ、この地にしじみ汁を売る鶏飯屋という茶店があり、茶店の女中お仲とお亀が面白い歌を唄って客をもてなした。そのはやし言葉から「どどいつ」と呼ばれるようになったという。  伝馬町2丁目の通りを直進し熱田神宮通じる大通りを越えると伝馬町1丁目となる。なお国道1号線は一本右の北側を走っていて、熱田神宮も1号線よりさらに北に位置した、ここから600mほど離れたところにある。

1丁目を約200m行くと丁字路となり、その東南の角に如何にも古いとわかる道標がある。熱田神宮の西端は、江戸時代東海道と美濃路(または佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置は建立当時(1790年)そのままであると言う。四面には次のように刻まれている。
東  北 さやつしま 同 みのち 道
南  寛政二庚戌年
西  東 江戸かいとう 北 なこやきそ 道
北  南 京いせ七里の渡し 是より北あつたご本社貮丁道
丁字路の突き当たりには、ガラス張りの祠に小さなほうろく地蔵が安置されている。この地蔵、もとは三河国重原村(現知立市)の野原に中に倒れていたのを、焙烙売りが荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、帰りに海辺の葦原に捨てて行った。地元の人が石仏を発見して安置したのがこの地蔵である。

西浜御殿
時の鐘
七里の渡し跡 常夜灯・時の鐘
常夜灯
丹羽家住宅(脇本陣跡)

宮の渡し公園の手前右奥には大名などをもてなした西浜御殿がある。丁字路を左折して行くと国道247号線に出るので、歩道橋で反対側に渡り直進し200mも行かないところに堀川沿いにきれいな宮の渡し公園に出る。時の鐘と常夜燈と七里の渡し場を眺める事が出来る。
時の鐘は1676年(延宝4年)尾張藩主光友の命により、蔵福寺の時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は、熱田の住民や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。昭和20年戦災で鐘楼は消失したが、昭和58年に宮の渡し公園内に復元された。鐘自体は損傷を受けず今も蔵福寺に残っている。
熱田湊常夜燈は、1625年(寛永2年)に熱田須賀浦太子堂に建立されたが、風害で破損したためこの地に移されて再建された。現在、常夜燈はその後、荒廃していたものを昭和30年の復元したのものである。

公園の道を挟んで反対側に、丹羽家の建物がある。幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で正面破風付玄関は格式の高さを示している。

この後、バス移動で熱田神宮にお参りをする。35、6歳の時頃、」会社の研修で鈴鹿(研修センターがあっいた)の研修の帰りに参拝した記憶があるが、記憶を呼び戻すことは出来なかった。新たな気持ちで参拝。

献酒
一の鳥居 二の鳥居
御神木(大楠)
信長塀 信長塀

根津講師の案内と説明で一、二の鳥居・御神木・信長塀本殿・常夜灯、二十五丁橋と見応えのある境内を歩いた。

本殿殿 本殿
常夜灯
池の亀石 二十五丁橋
二十五丁橋

熱田神宮:熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました。
(熱田神宮ホームページより抜粋)



今日のコースは 桶狭間古戦場跡公園→有松町の町並み→茶屋集落町屋建築の遺構→服部家(井桁屋)・竹田家・岡家→名残の松平部北交差点秋葉常夜燈 →扇川(中島橋)瑞泉寺天神社の石碑「史蹟鳴海城跡」碑芭蕉の句碑天神社誓願寺本陣跡碑丹下町常夜燈鉾ノ木貝塚跡千句塚公園 天白川(天白橋)笠寺一里塚東光寺→笠覆寺(笠寺観音)→呼続町鎌倉道道標白豪寺(あゆち潟碑)山崎橋熱田橋姥堂裁断橋址碑都都逸
 発祥之地碑
伝馬町1丁目道標ほうろく地蔵宮の渡し公園(時の鐘・常夜燈・七里の渡し場の眺望)→(バス移動)熱田神宮参拝


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第29回 知立~桑名宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                  11月29日 桑名宿へ
 

2012.11.28 有松~宮宿(七里の渡し)    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
           
江戸日本橋から鳴海宿まで341.1Km 池鯉鮒宿~鳴海宿間11.1Km

鳴海宿:鳴海は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。
鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。
本陣:1軒 脇本陣2軒 旅籠68軒

11月28日

桶狭間古戦場跡公園が今日のスタートである。なんてことか・・地図と事前に調べた資料を部屋(準備万端・・ただ単に持つのを忘れた)に忘れる。
バスの動く前に気が付けばいいのだが・・それがあれば忘れ物はしない。いつもより荷物は少ないが、メモ取りに追われた一日であった。
高徳院の大きな看板の前から10mほど歩いて、左に分岐するのが旧東海道で、1号線と別れて旧東海道を歩く。
300mほど歩き、再度、1号線と合流したところが「大将ヶ根」で、中山砦から出発、織田信長軍が通り今川義元軍を攻め入った所で、まさに戦国の合戦現場である。地図上では豊中市と名古屋市(緑区)の境である。信号を横断して右の道に斜め入ると有松町の町並となる。
手越川を渡ると宿場の町並みが眼に入る。江戸時代の有松は池鯉鮒宿と鳴海宿の間に位置し、茶屋集落として有松絞りとともに発展した村である。
有松絞りは1608年(慶長13年)竹田庄九郎が豊後の「絞染め」からヒントを得て考案されたものである。
今でも表通りには連子格子の家並みが続き、軒先・玄関には「有松絞り」の暖簾や販売案内が出ている。

間の宿・有松入口 町並案内板 町並 井桁屋 岡家

目にするのが道の両側にある町屋建築の遺構であ。ここの町も大火に遭い、現在の建物は、その後に建てられたのもが残っている。
有松における絞問屋として代表的な服部家の建物である。服部家の屋号は井桁屋である。その先の左側には、江戸時代の主屋を中心に明治、大正にかけて整備され、絞り問屋の伝統的形態を残している竹田家、岡家の建物がある。

町並
有松絞り・暖簾
町並 服部家住宅 連格子

主屋は塗籠造、書院、茶室とも建築的に優れているといわれる、古い家並みが続き、メインの通りは電柱電線の類はない。白壁・黒塀・青松、紅葉がマッチし、人通りの少ない朝の街並みは昔にタイムスリップした雰囲気がある。
有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり):愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を 中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を 生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。有松・鳴海絞会館では有松絞りの歴史や資料を気軽に見る事ができ、土産品も充実している。今日の昼食は街並の「寿限無茶屋」での、きしめん定食で昼食後の自由時間は1時間30分程あった。皆さん、お気に入りも物を手に入れたようだ。


住宅案内板

二代目松の石碑

有松一里塚

常夜灯(鳴海宿東側)

桶狭間の合戦
中島砦跡
瑞泉寺

町並みの外れにくると、一段高い民家に庭に、東海道開通当時からあった樹齢300年の名残の松の2代目松とその説明が書かれた碑がある。

そのすぐ先、高架の前に一際新しい一里塚がある。近年造られたのであろう「有松一里塚」である。一里塚の後ろに植えられた若木がそれを証明している。

名鉄線の踏切を渡って平坦な道を北西へ約1Km歩くと、平部北交差点の先に見える秋葉常夜燈がある。この常夜燈は鳴海宿の東入口に建てられたもので、表には「秋葉大権現」、右に「宿中為安全」、左に「永代常夜燈」、裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。1806年(文化3年)に設置されたもので、大きく華麗な常夜燈は街道でも有数のものであったといわれている。


瑞泉寺山門
本堂 町並 高札場(復元)
鳴海城址跡・石碑
天神社(鳴海城址)

交差点から500mほど町並みを歩くと扇川にかかる中島橋に出る。
中島橋を渡るとすぐ右手の階段上に瑞泉寺がある。1404年(応永11年)鳴海城主安原宗範の創建で、山門は1756年(宝暦6年)に建てられた四脚門で、宇治の万福寺総門を模したものと説明にあったが・・工事のトラックが山門の前に・・トラックが写らないよう何とかシャッターを押したが、雰囲気は感じ取れるでしょうか。
昔の佇まい想わせるような静かな鳴海の町並みを歩くと本町交差点に出る。旧東海道は直進であるが、交差点を右折して坂道を50mほど上るとUFJ銀行の前には復元された高札場、その先に天神社の石碑があり、階段を上ると正面に、「史蹟 鳴海城跡」の碑と、その後ろには芭蕉の句碑が3基あり、左手奥には天神社がある。
鳴海城は根古屋城ともいい、1394~1428年(応永年間)に安原宗範が築城した。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いでは今川義元軍の武将岡部元信が、この城で織田軍と戦った。その後、織田信長の手に渡り1590年(天正18年)に廃城となった。


誓願寺・山門
本堂
芭蕉供養碑

芭蕉道

本陣跡案内板
町並の旧家

交差点に戻る下り坂の反対側には、曹洞宗の庚申山圓道寺がある。その隣には松尾芭蕉の木像を安置した芭蕉堂と、その脇にある芭蕉供養塔は、最古の供養碑で高さ60cmほどの青色自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に没年月日(はっきりと確認ができなかった)が刻まれている。
交差点にもどり道路の左側山車小屋の脇に「本陣跡案内板」が立っている。京都に向かって行く人には見えないが・・東下りの人にははっきりとわかる。「ここまで来ると京都に近いから・・」と根津講師の話に「なるほど・・」とうなずく。


常夜灯(鳴海宿西側)

鉾の木貝塚案内板

千鳥塚案内板

千鳥塚石碑

東海道絵図

笠寺一里塚

信号から直進すると丁字路になり、右折してから北へ7000m程行って町並みを外れたところの三叉路角に丹下町常夜燈がある。鳴海宿の西入口の丹下に設置されたもの。表に「秋葉山大権現」、右に「寛政四年」、左に「新馬中」、裏に「願主重因」と刻まれている。
宿の東端と西端の双方の常夜燈が残っている東海道では貴重(中山道では常夜灯が宿場の出入口になっているところが多い)なものである。
さらに北へ400mほど行くと、千句塚公園前の山王山交差点になるが、その手前の右側傾斜面に鉾ノ木貝塚跡がある。
縄文時代前期の貝塚で貝層はバイカイ(バイ貝を調べたら:つぶ貝
バイ貝を食べる際には十分注意しましょう。 つぶ貝バイ貝を食べることにより 、めまい、ものが二重に見える等の視覚異常や頭痛などの食中毒様症状を起こす。と書かれていたが調理のレシピは多くあるようだ・・)が主で、土器類も多数出土していると説明にあった。
その先、見逃してしまうような細い道を
右に曲がると千句塚公園の入口で急坂急な階段が目の前に・・「登ったら景色は良いだろうなぁ」と・・千句塚公園の大きなクスノキの下に「星崎の闇を見よやと啼く千鳥 芭蕉」と彫られた芭蕉石碑がある。芭蕉の千鳥塚と呼ばれ句碑としては古のもので、この碑文は芭蕉の自筆と言われ、芭蕉存命中に建てられた唯一の碑との事交差点を左折して西へ500mほど行くと、天白川にかかる天白橋に出る。この橋を渡り宮宿へ向かうことになる。

 鳴海名物有松絞