11月27日

先月の街道歩きが10月26日から28日の3日間・・1ケ月ぶりである。待ち遠しい・・待ちに待った街道歩きである。
今日のスタートは御手洗公園である。いつものようにストレッチをし、歩き始める。左側には慈眼寺・・1ヶ月前とは周りの木々の染まり具合・・色が違う。
ひとつ先のT字路を右折すると旧東海道である。

御手洗池公園
問屋場跡石碑

本陣跡石碑
知立城址
知立神社石柱

常夜灯

500mほど歩くと名鉄池鯉鮒(ちりふ)駅前の市街に入り中町交差点の五差路を直進すると、右に池鯉鮒宿問屋場跡碑がある。その先の信号を旧東海道は直進するが、左折して初めの十字路を右折して50mほど行った右に池鯉鮒宿永田本陣跡碑がある。この辺が宿の中心だろうと思われるが、そういう面影を見ることができない。信号に戻り直進して行き突き当たった丁字路を右に曲がったところの左側に知立(ちりゅう)城跡がある。

今川義元側であった知立城は、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで落城し、織田信長の手に渡ってしまう。現在は公園になっていて遺構はなく、石碑と案内板が建っている。

知立神社
多宝塔

芭蕉句碑
知立公園
総持寺山門
総持寺

さらに直進し突き当たりの道路を左折して155号線を地下道でくぐって北へ300mほど行くと、右側民家の敷地の中に延喜式内知立神社の石碑、脇には立派な常夜灯があり、知立神社への案内となっている。これらはここの家主の好意でここに保存されていると説明があった。
知立神社へ立ち寄るため右折して80mほど進むと、左側に花菖蒲で有名な知立公園があり、突き当たりには、東海道三大社の一つに数えられている知立神社がある。日本武尊が東征のおり、当地の皇祖神を祀ったのが始まりという。境内の多宝塔は、室町時代に再建されたもので国指定重要文化財となっている。高さは約10mある。元に戻り先にすすむと左に唐風外観を想わせる山門の総持寺がある。総持寺には、徳川家康の側室お万の方の墓があると聞いたが山門の前には「生誕の地の石碑」があった。お万の方は結城秀康の母となる。

逢妻川
一の木一里塚

発祥の地碑
ひもかわうどん説明碑 町並 境橋説明板

さらに進むと道なりに左にカーブし広い自動車道に合流し、在原業平とかきつばた姫の逢瀬の場と言われる逢妻川にかかる逢妻橋を渡る。橋を渡り逢妻町交差点から左折して国道1号線と合流して北西へ歩くと、交差点から約500mの一里山歩道橋がある。この辺が知立市と刈谷市の境界となる。歩道橋の左側下に「一の木一里塚跡」の案内碑が建っている。歩道を渡るにせよ、直進するにせよ見落としてしまいそうである。
さらに直進し900mほど行き、斜め左に入る道が旧東海道となる。1号線と別れて左折し約500m行くと左に曹洞宗の洞隣寺がある。脇道にそれるが・・
我家の墓のある寺の宗派がが「曹洞宗」であり、街道歩きでも「曹洞宗」は目に付く。
その先を歩くとすぐ右の道端に、「旧「芋川」の地  ひもかわうどん発祥地」と書かれた標識が立っている。江戸時代に東海道名物として、いも川うどんがあったが、この名物うどんは「平うどん」でひもかわうどんとして現在に残っている。

境川 境橋 烏丸光廣の歌碑
阿野一里塚(北塚)

阿野一里塚(南塚)
阿野一里塚

今岡、今川と続くのどかな町並みを歩いて今川町交差点で1号線を斜めに横断して、しばらく行くと境川にかかる境橋に出る。
橋の欄干には簡潔明瞭な橋の説明がある。この橋の中央が三河国(刈谷市)と尾張国(豊明市)の境界となる。

その昔、三河側が土橋で尾張側が木橋でこれが中央で繋がっていた「継ぎ橋」と説明にあった。これを詠った「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん」烏丸光廣の歌碑が橋を渡った右側にある。
橋の途中から境川の上流を見ると、白く化粧をした山並みが見えた。冷たい風に冬間近を実感・・境橋を渡って、少し行くと、左手の国道1号線と合流し1.5KmほどKm歩くと道は分岐し、1号線は直進し、旧東海道は左の方へと進む。分岐点から300mほど行くと道の南側と北側に「阿野一里塚」が現存している。南塚は132.2㎡、北塚は165.3㎡と規模は大きくないが、昭和11年に国指定史跡となった。南塚には道標・歌碑が残されていた。
一里塚からゆるい坂道を
登っていくと右に概観の洒落た(一軒洋風)感じの坂部善光寺という寺院が目に付いた。東海道を歩いていていると、外観がとてもユニークな寺院がところどころに見受けられたが、やはり宗教も時代とともに(立替・住職の趣味?)歩んでいる事なのでしょう。

戦人塚
中京競馬場入口
伝説桶狭間
古戦場跡公園

石碑

今川義元の墓

公園案内板
(進軍ルート)

また、珍しい町名・地名に出合う・・ここは前後町という地名であった、町の名前はどういう謂れで付けられたのであろうか・・
さらに少し行くと左側に名鉄名古屋本線前後駅が見える。坂道を下り阿野一里塚から1.5Kmほど歩いた民家の脇に、ちょっと強面の狸の置物が立っている。脇の道を入り、坂を登ると国道1号線に出でる。ここにくると「戦人塚」の案内板が見える。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川方の戦死者2500人余りを埋葬、供養した塚が住宅街(戦人塚団地)の小高いところにある。街道に戻り、1Kmほど歩いた所で1号線と再度、合流し名鉄のガード下をくぐる手前には競走馬と蹄鉄の中京競馬場案内のモニュメント、高架をくぐると、すぐ右手に名鉄名古屋本線中京競馬所前駅が見える。200mほど先に高徳院の大きな看板が立っている。

古戦場の位置
(分かり易い地図でした)
進軍ルートと砦の位置
石碑

お化け地蔵

今川義元仏式墓碑

高徳治・庚申塔

往路の車中、根津講師手作りの桶狭間の古戦場の位置と進行ルート(分かり易かったです)


芭蕉句碑
地蔵様と竹林
軒先の灯篭
本堂と紅葉 本陣跡碑 古戦場跡公園

のレクチャーのあった桶狭間の古戦場跡(時に今川義元41歳、織田信長22歳、徳川家康18歳の時である)の石碑の建った公園に入る。
1560年(永禄3年)年5月19日、小勢3千人の織田信長が今川義元の大軍を破った古戦場で国の史跡となっている。東海道では池鯉鮒(知立)宿と有松宿の間に位置する。午後1時から4時頃までの合戦で今川川2万5千の兵も、3千の織田軍に追われ敗れ、今川側は2千5百の戦死者を出した。
今川義元は信長の家臣服部小平太の槍で突かれ、毛利伸介に首を討ち取られた。
墓は公園の一角の大木の下にひっそりと建っていた。広大な戦場跡があり、義元の無念さが感じられるかと思っていたが、大木と七基の石碑、綺麗に刈り込まれた植栽がきちんと手入れされ、コンパクトにまとめられれていた古戦場跡公園であった。
道路を挟んで向かい側の高台には今川義元本陣跡であった高徳院(山門は補修中であり脇から入る)がある。
境内には今川義元公本陣跡碑、「あかあかと日はつれなくとも秋の風」と書かれた芭蕉句碑があり、「子供の守り神」として信じられている、お蔵様がたくさん並んでいた。竹林に囲まれた寺の本堂の奥にはイチョウの黄、脇にはモミジの朱、境内に晩秋の美しさを実感した。


今日のコースは 御手洗公園池鯉鮒宿問屋場跡碑池鯉鮒宿本陣跡碑知立城跡総持寺延喜式内知立神社石碑知立公園・知立神社逢妻橋(逢妻川)
 
一里山歩道橋洞隣寺「ひもかわうどん発祥地」標識境橋(境川)阿野一里塚坂部善光寺名鉄前後駅中京競馬場前駅
 桶狭間古戦場跡公園


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第29回 知立~桑名宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

                                                 11月28日 鳴海宿へ

この地図上の寺社・旧跡、名所等の位置は目安です。
街道地図・現地案内板等で確認してください。
Blowin' in the Wind 2012
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2012.11.27 知立~有松    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ