Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

「白隠正宗」の高嶋酒造・・ここの酒蔵脇には酒造りに使っている「富士の霊水」が汲める蛇口があり、いつでもおいしい水が無料で汲み、飲めるようになっている。今回は、ここがスタート。右側方向が、かつての浮島沼で「はるばると長き沼あり・・」といわれた地域も干拓され、遠くを眺めても影は全くないが、地形をみると旧東海道よりも富士の裾野に向かって土地は低くなっており、水捌けの悪そうな地形である。
広重の絵にも描かれているように狭い街道の両側は
水面である。沼川第二放水路は東海道とほぼ並行している川で、海水が逆流してこの地に干拓地に害を及ぼすので放水路により海へ逃がすために造られた。

街道の面影もあまり感じない道を約800mほど進み、東一本松あたりにさしかかると「原一里塚」跡の石碑が建っている。一里塚を思わすものは残っていない。この向かいには村社の「三社宮」がある。街道を進むと立派な山門の曹洞宗「大通寺」がある。境内にはスルガ銀行初代頭取「岡野喜太郎少時、本寺に止宿して、初学舎に学ぶ」という碑が建てられている。

沼川第二放水路 一里塚案内碑 三社宮 大通寺山門 大通寺本堂

愛鷹浅間神社付近を桃里と言う。これは浮島ケ原の開発を鈴木助兵衛が手がけた地で、助兵衛新田と呼ばれた。明治の後期に桃を作ったので付いた名前と記されていた。神社の隣には助兵衛の功績を記録した碑(胸像)が建つ。神社は新しく特徴はない。桃里を過ぎると沼田新田、田中新田、柏原新田とかの地名が多くなる。
東海道本線を横断して左側に入ると、この地の干拓に尽力した「植田三十郎」の功績碑と村の安全を祈念した石碑が建てられてある。
この先で、本日の講師サプライズ・・ちょっと寄り道で海岸に立ち寄る、田子の浦である。この先の海岸は工場で「昔の面影をみられない」とここで海岸線を見ることが出来た。「ここで富士山が見られれば・・」の言葉が、この後の歓声のプロローグとなってゆくのでした。

愛鷹浅間神社 鈴木翁胸像 植田氏墓所 田子の浦 六王子神社

富士市に入ると、すぐ県道富士清水線と合流し、約800m行くと右手にJR東田子浦駅があり、その駅の手前に六王子神社がある。
この神社には三股(三本の川の合流点)の伝説がある。講師の滑らかな説明に聞き入る・・「昔、沼川、和田川、深井川が合流し、深い淵となっている所を三股と呼んでいた。ここには龍が住んでいて毎年お祭りに少女をいけにえにして捧げるしきたりになっていた。

400年ほど前に7人の巫女が関東から京都へ向かう途中、このいけにえのくじを一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。残った仲間6人は国元へ引き返す途中悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまった。村人が6人の亡骸を弔ったのがこの六王子神社だという。なお「おあじ」は鈴川の阿字神社(今回は説明のみ)に祀られている。

さらに300mほど行くと道の右側に立圓寺(りょういんじ)があり、この境内には望郷碑と並んでゲラテック号遭難の碑と船の錨がある。
望郷碑は文化5年、尾張藩の侍医、柴田景浩が江戸への旅の折に立圓寺に滞在し、ここから見た富士の絶景をたたえて碑を建てたものである。ゲラテック号(船籍インドネシア)は昭和54年10月19日、清水港から救援米を運搬中に台風に遭遇し立円寺南方の柏原海岸に船体が打ち上げられるとともに、二人の人命が失われ、その慰霊の碑も並べられている。マスコミにも大きく取り上げられた海難事故である。

東田子の浦駅
本陣跡案内碑
立圓寺 望嶽碑 ゲラテック号・・錨

立円寺から300mほど歩くと、昭和放水路にかかる広沼橋に到達する。この地の水害と飢饉を解決するためには駿河湾への排水路を作って浮島沼を干拓することが悲願であった。それを原宿の増田平四郎が27年間にわたって官に願いでて、ようやく認めらて1867年(慶応元年)に長さ5050m、幅7mの大掘割(これをスイホシという)を完成させた。しかし、その年の夏、高波に襲われて損壊してしまったが、その意思は後世の人たちに継承され、現在の昭和放水路となって成就された。

橋を渡り左に放水路沿いに入った松林の中に、平四郎像と記念碑が放水路を見るように立っている。
この先少し歩いて所にに「沼田新田一里塚の石碑がある。
舗装された平坦な広い道路を淡々と西へ約1.5Km行くと、右側歩道に面した庭に高橋勇吉と天文掘碑がある。高橋勇吉は天保の大飢饉による村民の困窮に心を痛め、自分の田畑や財産を売り払い、かつ多くの反対や苦難を乗り越えて、1836年(天保7年)から14年の年月をかけて三新田(大野、桧、田中)の80ヘクタールに及ぶ水田に立派な排水掘を完成させ、幾多の水害から守った。
勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから、この掘割のことを人々は「天文掘」と呼んだ。
現在は土地改良や道路の開発が進み、勇吉の天文掘はその跡を見ることができないという。

昭和放水路
排水樋門
平四朗像 沼田新田一里塚 天文掘案内板 毘沙門天妙法寺

実際には目には見えないけれど、右手はJR東海道本線、左手は駿河湾とによって挟まれた旧東海道をただひたすら歩きつづける。
やがて700mほど行った左手の小高い杜の境内に毘沙門天妙法寺があり、参道を登っていくと、中国風色彩のインド風寺院を思わせる派手な建築物が目の前に現れる。これが妙法寺であるが、震災の影響で鳥居が崩落寸前(撤去されていた)参拝不可となっており、門前で参拝となった。
ラマ教の流れをくみ、建物だけでなくスケールをも感じさせる異色の寺であると感じた。旧暦の1月7日〜9日に日本2大ダルマ市として知られる毘沙門天大祭は、50万人の人出で賑わうという。

「富士を望む歌」案内板 山部赤人
「富士を望む歌」石碑
大昭和製紙工場 富士山が顔を出す 左富士神社
(一里塚跡)

昼食は富士市の「磯料理・かねまる」さんで「しらす丼定食」・・とても美味かった。土産に釜揚げしらすを購入。食後はご主人に田子の浦港にある山部赤人の「富士を望む歌」の碑に案内していただく。港にひときわ目立つ立派な石碑に山部赤人の歌が刻まれている。
毘沙門天あたりは元吉原の町並みで、市街地に入ったという雰囲気である。その道を300m行くと道が分岐し、左手の細い道はJR吉原駅南口の方へ行く。旧東海道は右手の直角に曲がる道で、曲がるとすぐJR東海道本線の踏切を横断し、目の前の大昭和製紙工場の塀に沿って左へ曲がる。踏切の手前で「富士山・・」との歓声があがる。雲が切れ白く輝く山頂が見え始まる。
ここから道なりに行くと登り勾配で沼川にかかる河合橋にたどり着く。河合橋に立って左手を見渡したら製紙工場の煙突群が遠くに林立して煙を棚引かせていた。
河合橋を渡るとすぐ大橋バス停のところで道が分岐するが、左の道を選んで北西の方へ行き富士由比バイパス、東海道新幹線高架を潜って進む。河合橋から約1Km程の所に「左富士神社」がある。境内には遊具もあるので子供たちの遊び場となっているのであろう。


左富士と案内板
一本松と左富士 左富士全景
案内板
平家越え橋

このあたりが一里塚であったと聞いたが、ここでもそれらしいものは見当たらない。目の前の日清紡富士工場前交差点の前方左側「名勝左富士の碑」がある。ここで講師の二度目のサプライズ・・カメラ講座の撮影会風景のような「左富士」撮影会が開催された。いつ・・どこで・・見ても富士は美しい姿である。原宿からこの辺あたりまでは左富士の景色を堪能できる場所であり、東海道を西へ行くとき富士はいつも右手に見えるが、ここでは道のひずみ(たび重なる水害により街道も、宿場も高台に移って行ったと言う)により松並木の間から左手に見えるので、左富士と言った。ただその松もいまは、ただ一本残るのみである。

なお東海道では、ここ以外では茅ヶ崎の南湖の左富士(4月21日、当日は曇りで見えず)が有名である。

左富士に名残を残しを直進していくと、やがて左側に和田川が見え、約500mのところで道の分岐点となる。左折して先の橋をわたる方向が旧東海道になる。この橋は「平家越え橋」といい橋をわたった右の橋詰に平家越碑がある。この碑は、1180年(治承4年)源氏軍と対峙し富士川と浮島沼に陣取った平家の大軍が、水鳥の羽ばたきに驚き退却したという、富士川の合戦を記念して1924年(大正13年)に建立されたものと説明にある。  

平家越碑
東木戸跡案内板
この辺りが脇本陣跡 本陣跡 鯛屋旅館

橋から北西に直進していくと約600m行った左側に岳南鉄道吉原本朝駅があり、この辺から吉原の商店街となる。

商店街のメインストリート歩道右側に「東木戸跡」の案内碑板がある。吉原の街に入るとこのような案内碑があり、街道歩きする者にとってはありがたい。脇本陣跡はこの辺と言われたが、それを示すものがなく写真に収める。その先「つぼ八」あたりが本陣跡(写真)であった。


鯛屋旅館
山岡鉄舟が書いた
鯛屋の看板
次郎長の写真等 火打石に送られて
西木戸跡案内板

その斜向かいに「鯛屋與三郎旅館」がある。鯛屋旅館として、吉原商店街で天和2年(1682年)より創業、その歴史ある旅館の一部をかつての宿場風に改装し、平成18年3月、吉原宿の象徴として「吉原本宿」オープンし、吉原の名物を販売する「一店逸品販売処」、歴史的資料の展示を行う「歴史処」・「食事処」が整備されています。館内には山岡鉄舟直筆の「鯛屋與三郎」の看板、参勤交代時に宿泊した大名の歓迎看板、清水を代表する「次郎長」写真等も展示されている。ボランティアさんの「火打石」に送られて鯛屋を出る。少し先に「西木戸跡」の碑が建っている。

青島八幡神社
庚申塔
三度橋(富安橋) 賽神(道祖神)
鶴芝の碑

商店街の道に分かれを告げ、旧東海道を500m南下すると叉路の複雑な交差点に出るが、右から2番目の道を横断して進む。200mほど進み右に入り潤井川にかかる富安橋をわたって住宅街の中を歩いていく。閑静な住宅街の庭の一角に「賽神」が祀られている。広い道を先に、月に三度江戸と胸・大坂を往復した三度飛脚の願いで架けられた橋、三度橋(現在は富安橋)から約1Km歩くと富士市の庁舎が左側に見える。
少し先の民家の前に鶴の絵と漢詩を刻んだ「鶴芝の碑」がある。このは碑は1820年(文政3年)に建てられたもので、絵は画家の蘆州、漢詩は江戸の学者亀田鵬斎によるものである。詩文の内容によると、この地は間の宿「本市場」といい、鶴の茶屋というのがあり、ここからの眺める富士は素晴らしく特に中腹にある芝生のように見えるところは「鶴が舞うようであった」とある。


今日のコースは 原宿(高嶋酒造)→沼川第二放水路→原一里塚→三宮社→大通寺→愛鷹浅間神社→鈴木翁胸像→六王子神社→植田三十朗の墓→
  →(田子の浦)→立圓寺→広沼橋→昭和放水路→平四朗像→天文掘碑→毘沙門天妙法寺→(田子の浦港・歌碑)→河合橋→左富士神社→吉原左富士→
  →平家越え橋→平家越碑→東木戸跡→脇本陣跡→本陣跡→鯛屋旅館→西木戸跡→賽神(道祖神)→三度橋(冨安橋)→鶴芝の碑

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第16回 原〜吉原宿」 街道案内人 根津信年 歴史講師

江戸日本橋から吉原宿まで135.9Km  原宿から吉原宿間 11.7Km

吉原宿 : 吉原湊は古くから海運の拠点として栄えたところであり、江戸時代
は元吉原辺りに宿が設置されたいたが、自然災害が多く高潮などの災害をたび
たび受けていたため、1616年(元和2年)に中吉原に移転した。
しかし1680年(延宝8年)の大津波で宿は壊滅し東海道も通行不能となった。
そのため東海道は北へ大きく迂回する経路となり、また吉原宿も現在の中央町
周辺に移転した。吉原は水に恵まれていたため江戸時代から製紙が盛んで、
製紙産業の町として発展してきた。


本陣:2、脇本陣:3、旅籠:60軒

2011.12. 9 原〜吉原宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ