Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・

浮間船渡駅前は「サクラソウ」自生地のある浮間公園である。中央に大きな池があり、池の周りの植栽も色づき始め美しい。静かに釣り
をする人、ジョギング・ウーキングをする人、幼稚園の課外保育等々、地元の人たちの憩いの場となっている。
公園を出てすぐ左側には由緒ある「氷川神社」があり、今日最初の参拝である。壁のような堤防に向かい階段を登る、「荒れ河」と言われた荒川の面影は感じられない、静かなゆったりとした流れがあった。堤防を歩き、荒川にかかる戸田橋の側道を進む。
突当りで信号を渡ると戸田市に入る。橋の中間が
東京都板橋区と埼玉県戸田市の境界線となっている。右手に小高い土手を見て進む
と「旧中山道の」標識が住宅の角に立っている。その先直進したところ左側には、船の守り神である「船玉大明神」・「水神宮」を祀ってあ
る、舟形の石のある「戸田水神社」がある。地元の人々の氏神的存在である。先すぐ右手の側道脇の一段高いところに「中山道渡船場
跡」の碑が立っている。戸田の渡しは渡船13隻(馬船3隻、平田船
1隻、伝馬船1隻、小伝馬船8隻)の220人で運行しており、渡船場は明治8年(1875年)に長さ135mの木橋の初代戸田橋が架けられるまで続いた。現在の戸田橋は1978年完成の4代目で、初代橋より
約100m程上流に位置する。

浮間公園 氷川神社 戸田水神社 中山道渡船場跡 旧中山道標識

元に戻り標識を見て、旧中山道を北へ進み、右側に戸田市内で最古の木造建造物の地蔵堂があり、その斜向かいには新しく建てられた
「中山道の案内板」が立っている。をさらに進むと菖蒲川で道は途切れる。対岸以降の中山道は現在消滅しているが、旧中山道に近い
道を進む。右に迂回して川岸橋を渡る。
17号線の川岸三丁目信号手前の下町2丁目あたりで右に入り、再度旧中山道を進む。街道跡、史跡等のない下前公団通りを進む。
公団通りを歩き下町1丁目信号の先の小さな公園にも中山道の案内板がある。本町信号の先の17号線に合流し右折して進む。

地蔵堂 中山道案内板 菖蒲川(川岸橋より) 下町公団通り 案内板(本町1丁目)

下戸田南信号の先左側「バーミヤン」敷地の一角にブロック塀に囲まれた立派な「お堂」があるが案内表示もなくて何が祀られているの
か?素通りだったので不明である。さらに進み、錦町一丁目南信号交差点で戸田市から蕨市に入る。
その先の信号で、旧中山道は17号線と分かれ、ガソリンスタンドの右側の道に進み蕨宿に入る。道の分岐するところに「中山道蕨宿碑」の立派な石碑がが立っている。

お堂(由緒は??) 蕨宿入口
石碑
蕨宿ゲート 歩道の浮世絵

宿場通りの入口に「中山道・蕨宿」木製ゲートが立ち、通りもカラーになる。通りの両側の歩道上に、中山道全宿場の「中山道六十九次
浮世タイル」が敷かれている。その先右側郵便局前に、「蕨宿 史跡めぐり」案内版があり、通りは17号線に並行、整然としてかつとても
きれいで地元の力の入れようが伝わってくる。左側に歴史民俗資料館分館がある。

蕨宿案内板 資料館分館 歴史資料館分館
うなぎの今井
蕨宿・本陣跡

信号のある交差点左角に、創業二百数十年の看板のかあかる「うなぎ今井」入口に「蕨宿 今井の深き江戸の味、生を養い気をも養う」
木版が立てかけてある。これには納得。
その先左側に、明治時代織物の買継商をしていた家をそのまま使用した脇本陣跡の岡田厚生
堂薬局、隣接して実物大旅籠屋、商家、本陣上段の間を復元し、1/200の宿の町並み模型のある「
歴史民族資料館本館」があり、その隣に岡田加平衛本陣跡が並んでいて、この辺りが宿場の中心地であったところ。

市役所の脇を入ってゆくと「蕨城址」の碑がある。小さな公園となっており「成年式発祥の碑」、枝分けされた「ニュートンのリンゴの木」、
堀址が残っている。その隣には和楽備神社、ここの狛犬は両側とも口を開いている・・「理由は調べてください」。鳥居の右わきの宝塔は
案内板によると、安山製の宝篋印塔で、享和元年(1801年)に、蕨三社の敷石供養のため、町田岩治郎により造立されたもので台座
の四方には絵が描かれている。

本陣跡案内板
蕨城址碑
成年式発祥の碑 蕨城址堀跡 和楽備神社

その先右側に「中仙道蕨宿まちづくり憲章」立札、同じ右側のせんべいの「萬壽屋」は、昔は茶屋で10代続く老舗である。
その角には「地蔵の小径」碑が立つ、右折すると小路は三学院への道で突当りに総門がある。総門の前右側に、1800年(寛政12年)
建立の「馬頭観世音」を梵字で陰刻した三学院梵字馬頭観世音塔があり、総門の先、右側建屋内には左から地蔵石仏(目疾地蔵)、
六地蔵、子育て地蔵が鎮座している。


和楽備神社・宝塔
中山道武州蕨宿・碑 地蔵の小路・萬壽屋 三学院山門 地蔵堂

地蔵菩薩:1658年(万治元年)念仏講を結んだ13人により「あの世」と「この世」の安泰を願い造られた高さ1.9mの地蔵尊である。
また目疾地蔵と言われ目に味噌を塗ると目の病気が治る、または眼の病気にならないといわれている。
六地蔵:1661〜1704年間(寛文から元禄)にかけて順次造られたもの。
六地蔵とは地蔵菩薩が六道「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」に分身して人々を救済する姿を表している。
子育地蔵:1694年(元禄7年)に江戸浅草橋紀伊国屋平兵衛に造らせた高さ2.4mの蕨市最大の地蔵尊。
総門を潜ると奥に本殿がある。三学院は本尊が平安中期滋賀大師作十一面観音菩薩で、木造十三仏坐像でも知られている。

元の宿場通りに戻り先に進み、宿場出口には入口と同様な木製ゲートが両側に立ち、ゲート左側の北町交番に隣接して、「中山道ふれ
あい広場」碑が立ち大名行列壁画が描かれている。

地蔵堂・子育て地蔵 三学院
三学院・五重塔
三学院・六角堂 はね橋

蕨宿の中心は堀で囲まれていた。宿場の飯盛女・助郷、機織女工の夜逃げ、逃亡を防ぐためのもので、昼間ははね橋を仕掛け、夜間は
橋を上げ、堀を越えられないようにしたものであり、蕨市指定文化財になっている。現在、残っているものは復元されたものである。

ふれあい広場 中山道ゲート 宝蔵寺 一六橋跡 一里塚・弁財天

ゲートを出て錦町三丁目信号交差点の国道17号線を横断し、県道79号線を西へ進む。第二中学校を過ぎて右にカーブし、錦町五丁目
信号交差点から約200mのところの、小さな橋のかかる用水路が
境界線で、蕨市からさいたま市南区に入る。このあたりでは1と6の日
に「市」が建ったところで、ここにあった小さな橋は「一六橋」と呼ばれ、右側には木製の碑が建っている。
境界から約350mの辻二丁目信号交差点右側の辻一里塚公園に隣接して「一里塚の跡」碑があり、当時の辻周辺は湿地帯で通行が
困難であったため水難除けに「水の神弁財天」も一緒に祀ってある。
その先で東京外環自動車道下を横断し進む。外環道から約300m左側に、木曽名所図会に「辻村に熊野権現のやしろあり」と詠われた
熊野神社がある。道なりに進み、突当りで六辻水辺公園前の信号丁字路を右折して進み、六辻信号交差点で17号線に出る。
交差点左角交番敷地角に、六辻村道路元標が立っている。17号線を横断し、次の信号を左折し、すぐの分かれ道は右手を進み、次の
信号を直進する。その先の信号から緩い上り坂が始まり、坂の途中の横断歩道橋手前に「焼米坂」の標識がある。昔茶屋があり、名物
が「焼き米」であったことから由来している。この下をJR武蔵野線が通っている。歩道橋を過ぎ、さいたま市南区と浦和区の境界道(左側が南区)を進み、次の信号辺りから下り坂となり、さらに次の信号で浦和区に入り進む。浦和区境界から約300m進み、右側に1869年
(安政6年)建立権現造り社殿の調(つき)神社がある。「調」は租庸調の調で、伊瀬神宮に収める武蔵野国の調べ物(年貢)はここに集
められた。

熊野神社 焼米坂の碑 狛犬の代わりの 幸運(開運)の霊水 調神社

「調」の運搬の妨げとなる鳥居や門は、この神社にはない。中世ごろから、「調」が「月」と同じ読みであることから「月待信仰」と結びつき、
兎を神使とみなす兎信仰が行われるようになった。参道入口両側には、鳥居や狛犬のかわりに「うさぎ石像」が置かれており、境内には
天然記念物に指定された樹木が密集している。
調神社を過ぎ、信号の先から商店となりこの辺りから浦和宿となる。浦和宿は江戸から約24Kmの宿場で、市場として発展した「宿」で
毎月2と7の日に市が開かれ賑っていた。周辺には見沼などの沼地が多く、ここで獲れた鰻が宿の名物で、うなぎの蒲焼き発祥地とも
言われている。次の信号を過ぎ左側歩道上に、「中山道浦和宿」碑が立っている。



今日のコースは JR浮間船渡→(旧中山道)→戸田橋→中山道渡船場跡→水神社→地蔵堂→菖蒲川→川岸橋→お堂→蕨宿・中山道碑→蕨宿ゲート→
   蕨宿案内板→うなぎ今井→歴史民俗資料館分館→蕨城址→和楽備神社→中山道まちづくり顕彰・立札→地蔵の小路・碑→三学院→蕨宿ゲート→
   中山道ふれあい広場→里塚跡→水の神弁財天→焼米坂→調(つき)神社→浦和宿入口→JR浦和

 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第3回 巣鴨宿〜戸田橋」 街道案内人 西平 暹 歴史講師  

2011.10.21 巣鴨宿〜戸田橋    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ

地図をクリックで拡大
  戸田橋(蕨宿)から浦和へ

蕨宿:江戸から約19kmの宿場で、現在も国道17号線の北東側に並行して環境整備・保存された、美しい街並、
旧中山道の街道跡が残されている。
蕨宿を過ぎると名物の鰻の店がなくなるため、ここで鰻を食べる人が多く、浦和宿と並び「鰻の宿」で有名。
蕨の地名由来は、藁を焚く火の様子から「藁火村」としたという説、または植物の名からとったという説と多々、
あるが、全て「藁火(わらび」に関係している

本陣2軒、脇本陣1軒。