Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・

倉賀野駅入口信号を直進し左側須賀邸塀の前に、須賀庄兵衛脇本陣跡碑がり、道を挟んだ反対右側の格式ありそうな家の前に「須賀
喜太郎
脇本陣跡碑」続いて右側に、復元された「高札場」があり、その先上町信号交差点を横断し、左側小路角に、「飯塚久敏と良寛の
碑入口」碑と「総鎮守倉賀野神社」石柱がたっている。

倉賀野神社:倉賀野及び近郊7ケ村の総鎮守。旧社名は飯玉神社で、明治43年近隣の社寺を合併し現名に改名した。
第10代崇神天皇の御世、皇子豊城入彦命が東方平定に向かいこの寺の境内に斎場を設け松の木
を植えられた。父より授かった亀形
の石を御魂代として祭祀されたことが由来となっている。改築の際に倉庫より出てきた天明7年(17817年)狩野探雲(たんうん)63才の
ときの作画で、大板4枚をつなぐ縦3m×横2.3mの大作。「八方睨みの龍」が拝殿内で見られる。

倉賀野神社 庚申塔 良寛の碑 橘物語・飯塚久敏 安楽寺山門

飯塚久敏:1810年(文化7年)この地に生まれた歌人で、良寛を世に知らしめた人。倉賀野神社本殿裏に碑がある。

その先、街道へ出て3分ほどの右側に「安楽寺「珍しい将棋の駒形をした2基の異形板碑がある。横断歩道橋の上町西信号交差点辺り
に「木戸があった」との説明があり、ここで倉賀野宿は終わりとなる。

信号を直進し、延々と続くここから高崎宿までの約4km間は、単調でただただ淡々と歩く。121号線の右側に200mほど続く松並木は、
昔の松並木跡で、現在は再現のための松が植えられている。ここらあたりから上毛三山(赤城・榛名、妙義)が美しく眺められる。

並木が終わり、しばらく歩くと右側に浅間山古墳(前方後円墳)の森が見え、その先、サンピエール慈光会病院入口バス停手前に「倉賀野町交通事故犠牲者供養塔」お地蔵さまがある。121号線をさらに進み倉賀野西交差点を横断し、粕沢川にかかる小さな粕沢橋のあたりに立場があった。上佐野町信号交差点を横断し、その先で国道17号線ガード下を潜る。すぐの和田多中信号は直進の県道121号線を進み、次の新後閑町信号交差点を直進、県道134号線に入るとJR上越新幹線ガードを潜る。このあたりに来ると遠くに高崎観音山丘陵にある「白衣観音」が望める。

安楽寺 異形板碑 松並木(再現) 浅間山古墳 お地蔵さま

市街地の街並みとなり、上州電鉄上信線踏切を渡り134号線を進むと突然高層ビルが目の前に現れる・・高崎市役所である。

和田町信号のあたりから高崎宿となる。このあたりに来ると「高崎ツーデーマーチ」で歩いたことを思い出す。通りを進み、あら町交差点
を左折すると高崎市役所、高崎城址公園へと向かう。1598年(慶長3)井伊直正築城の高崎城址の高崎公園に進む。

公園入口に、高崎城址案内板、現在も残る三の丸外囲土居と堀があり、さん然と輝く高層ビルは高崎市役所である。

粕沢橋 河川改修の碑 上信電鉄 高崎市役所 城址公園

城址公園を通り抜け、下る道のすぐ右側参道階段の上に、宮中で鵺を退治した話で有名な源頼政を祀った頼政神社がある。

頼政神社:1695年(元禄8年)高崎藩主になった松平輝貞が祖先の「源三位頼政」を祀り建立した神社である。その後、越後国村上に
転封となり社も移したが、1717年(享保2年)再び高崎に転任となりこの地に移された。

頼政は平安末期源家の正統に生まれた武将で歌人としても優れ、保元・平治の乱で功をあげ、のち剃髪し源三位入道となるが、以仁王
を奉じ平家追討を謀るも破れ1180年(治承4年)宇治平等院で自刃した。
頼政神社脇坂道を上り、高崎公園に戻る。公園には樹齢300年と言われる「白木蓮」の大木が聳えている。堀の脇を通り市役所前を通
り抜け、道路を渡ると群馬シンホニーホール、群馬音楽ホールの建物から練習中の音楽が流れてくる。その向かい側には高崎城東門・
乾櫓、第十五歩兵連隊の碑がある。

頼政神社 狛犬 東門・乾櫓 十五連隊の碑 掘割

市役所前通りに戻り、あら町信号交差点手前右側ビルの間に、太田蜀山人の紀行文にも登場する瓦葺の塗屋社殿の諏訪神社がある。

あら町交差点を左折、連雀町地下歩道を渡ると右側路地奥に徳川忠長(秀忠・お江の子)の墓のある「大信寺」がある。

諏訪神社 大信寺 徳川忠信の墓 案内板 守随彦三郎の墓

徳川忠信:二代目将軍秀忠の次男で三代将軍徳川家光の実弟にあたる忠長は、言行粗暴・大逆不動の罪人としての嫌疑をかけられ、
寛永9年(1632年)に高崎城に幽閉された。時の高崎城主安藤重長は、しばしば赦免を哀訴したが認められず、寛永10年(1633年)
に切腹を命じられました。忠長は切腹より自ら命を絶つことを選んだのでした。忠長28歳の若さだった。

元に戻り田町信号・田町北信号交差点から国道354号線となり、九蔵町信号から次の本町三丁目信号交差点を左折する。 354号線を進み、本町二丁目、次の本町三丁目信号交差点で354号線と分かれ直進する。信号から左折し、その先右折した奥に、高崎の総鎮守
高崎神社がある。(今回は立ち寄りせず)

高崎神社:1598年(慶長3年)井伊直政高崎城改築の時に建立し、歴代藩主の崇敬を集めていた。直径17.5cm、厚さ1.8cm、周縁
に48文字の銘文の、高崎市指定重要文化財の鰐口がある。

狭い赤坂通りの坂道を下る。左側に天正年間(1573〜1592年)井伊長政が伯母恵徳院宗貞尼菩提のため創立した恵徳禅寺、その先右側に、甘楽郡野上村出身の狩野探雲の「天女」と「龍」の天井画や涅槃図のある長松寺があるがなぜか参拝できなかった。

さらに交差点を横断した先左側に、旧中山道沿いに残る醸造風景としてよく紹介されている岡醤油醸造。その先、常盤町信号交差点を
右折する。
右角の赤レンガ塀建物(画像なし)は、明治・大正・昭和の高崎の産業界で中心を担った山田家の居宅跡で、現在は図書館
山田文庫として公開されている。

蔵造の商家 長楽寺山門 道祖神 岡醤油醸造 君が代橋

住宅街の中を道なりに進み、右折して約8分ほどの並榎町坂下公民館の分かれ道は左手を進み、前方突当りに高架道路が現れる。
この地点の高架道路は、国道354号線・国道17号線と国道18号線が三層構造インターチェンジのようになっている。横断歩道を頼りに
烏川に架かる「君が代橋」の歩行者専用側道を渡る。

君が代橋:当時木造だった橋を、昭和52年より10年かけて現在の構造の橋に付替えた。橋名の由来は、明治11年天皇が北陸、東海
巡幸のとき馬車で木橋を渡られたことによる。君が代橋を渡り、堤防下に降りる階段の先に萬日堂がある。コンクリート造りのお堂の中には神々しい「阿弥陀如来像」が安置されている。元の戻り、北西へ向かう国道406号線を
しばらく進み下豊岡町西信号分かれ道を右手
の406号線を進み、その先に「左安中、右中之条・下室田」の道標が立っている。406号線と分かれ左手を進む。

分れ道の三角地帯に、「左くさつみち」「右はるなみち」追分道標が立っている。その先を約10分ほど歩いた左側に、平安末期1051年
(永承6年)奥州の阿倍氏の反乱を鎮圧しに行く途中この地に立ち寄った、源頼義・義家父子が戦勝祈願で創立した「八幡神社」がある。今回は赤い大鳥居を眺めるにとどまった。(鳥居から参道が650m続いている)

烏川と榛名山 萬日堂
供養碑
達磨屋さん 飯野茶屋本陣

さらに約5分程歩き左側に、大名や公家などの食事・休憩施設の飯野茶屋本陣跡がある。建物の内部は午前9時30分〜午後5時の間
無料で見学ができるが本日は休館日であった。さらに右側上豊岡町バス停留所若脇路傍に石仏が並ぶ。上豊岡町信号で国道18号線
に斜めに合流して右折し横断歩道を渡り18号線の左側を進むと大木が聳える江戸から28番目の「藤塚一里塚」がある。

さらに約5分ほど18号線左側を進むと、少林寺入口信号となる。先に進み振り返ると山の中腹に寺の屋根を見ることが出来る。

大門交差点を直進し、すぐ高崎市から安中市に入り、右側ミツウロコ脇の用水路の橋上に享和2年(1802年)建立の「坂東・秩父・西国
橋供養」と刻まれた寒念仏橋供養碑がある。
板鼻宿の木嶋七郎佐衛門が中山道を横切る小川に石橋をかけ、旅の安全を祈って建てた
供養碑である。18号線の左手は土手で遮られて見えないが、碓氷川が流れている。

茶屋本陣・中庭 石仏群 旧家 一里塚碑 一里塚

板鼻下町信号交差点で右折し、すぐ横断歩道を渡り直進し18号線と並行の右手の道を進む。すぐその脇に「中山道・板鼻宿0.5Km・
高崎宿5.6Km」の道標が立っている。 すぐ先右側に異人館の看板がかかる建物。現場では確かに異人的と納得したが、写真では平凡な建物で、さて何の商売をしていたのでしょう?

その先の右側の小川と塀の三角地帯に、双体道祖神を中に挟んで石碑が三つ並ぶ。その先、信越本線「第九中仙道踏切」(JR・県道の表示は中仙道であるとの事)を越えると、正面はまっすぐな通りが続く。最初の交差点の右角に、「中山道板鼻宿」道標があり、ここから
板鼻宿へ入る。交差点の先の左側に板鼻郵便局がある。
人通りのない宿場通りを進み、右側に旧家の建物が並ぶ。宿場通りの中ほどの信号機は、「板鼻宿」でとてもわかりやすい名称である。

八幡神社鳥居
道標
道標案内板
双体道祖神
江戸時代創業の暖簾

その先の右側「安中市板鼻公民館」入口花壇に、まだ新しい「(木埼)本陣跡」碑が立っている。入口から中に入り、公民館の右奥に窓を閉め切った旧本陣書院がある。木崎家本陣の数百年前に建設されたの付属書院であったもので当時の面影が残っており、皇女和宮が
降嫁のため江戸へ向う途中の1861年(文久元)年11月10日この書院に一泊している。見学は次回である。

午後5時近くとなりあたりは暗くなってきている。今日のゴールはここである。斜向かいのスーパーに走る・・もちろんゴールのご褒美だ。



今日のコースは 倉賀野神社→安楽寺→(木戸)→松並木跡→浅間山古墳→お地蔵さま→粕沢橋(立場跡)→上州電鉄踏切→高崎市街(高崎宿)→
  高崎城址公園・高崎市役所→頼政神社→高崎公園・高崎城址→諏訪神社→大信寺→(高崎神社)→(恵徳禅寺)→(長松寺)→(岡醤油醸造)→
  山田家居住跡→君が代橋→萬日堂→道標→(八幡神社)→飯野茶屋本陣→石仏群→藤塚一里塚→小林寺入口→寒念仏供養塔→双胎道祖神→
  中仙道第九踏切→板鼻宿→道標→板鼻公民館


 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第13回 倉賀野〜板鼻宿」 街道案内人 四宮 功 歴史講師


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   倉賀野宿から板鼻宿へ

高崎宿:1598年(慶長3)井伊直政により城が築かれ、赤坂・和田から高崎と命名されたて街造りが行われた。

多くの寺院や町の移転とともに形成された城下町は、物資の集散地・商業のまちとして中山道随一の繁栄を誇り、
街道筋の田町、本町、新町などに市が立ち、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と詠われた
ほどであった。
城下町であったため、宿場の機能としては貧弱で、大名も宿泊を避けたため、本陣、脇本陣はなく旅籠が15軒
あるだけだった。
中山道はこの高崎城の外郭を取り巻くように続いている。

本陣0軒、脇本陣0軒。

2011.11. 8 倉賀野宿〜板鼻宿    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ