Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・

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   新町宿から倉賀野へ

新町宿:江戸から11番目の宿場。
はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は、烏川北岸の玉村を経由するルートだったが、1651年(慶安4年)に落合新町、
1653年(承応2年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、ルートが変更された。
これに伴い、1724年(享保9年)に両方の町を合わせて新町宿が成立し、中山道の中で最も遅く成立した宿場なので「新町」宿と名づけられた。明治天皇、芭蕉・一茶のゆかりの場所が残っている。

本陣2軒、脇本陣1軒。

新町駅入口信号交差点から本庄方面に戻ると、右側丁字路角に、四阿風休憩所のある行在所公園奥に明治11年9月2日明治天皇が
宿泊された行在所跡の建物がある。

御在所前の路を奥に進むと右側に、境内いっぱい朱色の鳥居が立並ぶ於菊稲荷神社がある。
於菊稲荷神社:江戸時代、旅籠大黒屋で働入ていた越後の貧農の生まれの飯盛り女であった於菊は、美貌で気立てが良くこの稲荷を
熱く信心していた。ところがある日、突然体が動かなくなる病気にかかってしまうと、主人の態度が変わってしまった。宿場の人たちが哀
れに思い稲荷の境内に小屋を建て、於菊を3年もの間、養生させた。
ある夜、稲荷神が現れ於菊の病を治してくれたので、感謝した於菊は稲荷神社の巫女となった。以来、於菊稲荷と呼ばれるようになった
と言う。

明治天皇御在所跡 御在所跡・内部 於菊稲荷・鳥居 於菊稲荷・本殿
双体(そうたい)道祖神

元に戻り、新町駅入口信号交差点から10mほど先の左側に「史跡旅篭高瀬屋跡」案内碑が立っている。
旅篭高瀬屋:俳人小林一茶が1810年(文化7年)5月11日に宿泊した旅籠で、川留で逗留していると夜更けに突然起こされ、川渡りの
人々を助ける灯籠の建設費の寄進を強要され、幾度と断わったが根負けして十二文寄付した、という話が残る。
「手枕や 小言をいふも 来る蛍」この句は当時の様子を詠ったものである。
そこから約5分ほどの左側に「小林本陣跡碑」がある。 宿場を通り過ぎ、県道178号線を進み温井川にかかる弁天橋へ、橋の手前左下
に、清水が湧き、旅人の喉を潤した場所に、1783年建立「弁財天」が建立されており「むすぶより はや歯にひびく いずみかな」の芭蕉句碑がある。弁天橋橋の手前右側には「日本スリーデーマーチ発祥の地」碑が建っている。堤防に上がると上州の山並が綺麗に見える。

旅籠高瀬屋跡・石碑 宝勝寺
宝勝寺・小判供養塔
小林本陣跡
案内碑

橋を渡るとすぐ藤岡市境界標識があるが、この辺りは行政境界が複雑になっているとの事。新町宿は高崎市の飛地となっていて、これ
から先のしばらくの区間は178号線の左側は高崎市新町、右側は藤岡市となる。
旧中山道は、その先の分かれ道の右手を進み、完全に藤岡市に入る。まっすぐな道を進み、1834年(天保5年)建立常夜燈や庚申塔
などがある伊勢島神社、すぐ右側には江戸後期の代表的建物で蔵・住宅・別荘など19棟が並ぶ登録有形文化財「川端家住宅」があり、
川端家住宅から道なりに進み、関越自動車道トンネルを潜る。

「発祥の地」碑 弁財天
芭蕉句碑
伊勢島神社・本殿 川端家住宅・表門

トンネルを出ると道は2つに分かれ、右手はサイクリングロードの烏川堤防へ上がる道、左手下には旧中山道(国道178号線)を見る。
どちらの道も、約400m先で三菱鉛筆工場付近で県道178号線と合流する。河川敷の小さな森は「お伊勢の森」小さな祠が残っている。
度重なる洪水でここにあった石碑、道祖神、庚申塔は伊勢島神社に移されたと言われている。

左手の道を道なりに進み、突当りを左折し右折して田園風景の中の道を進む。約400m進み、三菱鉛筆工場付近で178号線と合流して
右折して進む。少し先のサイクリングロードから下る道の手前に「中山道←倉賀野宿3.8Km・新町宿1.4Km→」の標識があり中山道
であることがわかる。

中山道と川端家住宅 信仰庵と橋供養塔 お伊勢の森 三菱鉛筆工場 堤防上の中山道

178号線をしばらく見ながら進み、道なりに左に堤防を下り、民家の並ぶ小道を進む、突き当りを右に、その突き当たりで堤防の法面を
上る。登り口に「旧中山道」の標識がある。
堤防に上がり、当時はこの辺りに「渡し場」があり、対岸の岩鼻村へ渡っていた。現在は左折して堤防を約1分ほど進み、烏川にかかる
柳瀬橋側道を渡る。橋の終端の「高崎市」標示で藤岡市から再度高崎市に入る。
橋を渡り、すぐ右折する。200m程先に旧の柳瀬橋の跡(川に橋桁の跡が残る。堤防の階段を下りYj字路の先を右に入ると「赤城神社・
群馬の森」がある。元に戻り、坂を上り途中左側には「北向子育観世音」がある。坂を上り切ったところの岩鼻町信号交差点で、県道13
号線を右に進む。岩鼻交差点を右に進み、岩鼻町北の信号を横断、横断歩道から右折し約150mの右角の公園奥の「天満宮鳥居」の
左側に「岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡」案内板が立っている。

右・中山道 堤防の法面を登る 渡しの跡 旧柳瀬橋跡を望む 赤城神社

岩鼻代官所:1793年(寛政5年)幕府の代官所が置かれ、江戸の北辺の守りの中心たなった。
1868年(慶応4年)明治政府は岩鼻県を設置し、1871年(明治4年)群馬県が成立するまでここの旧代官所に岩鼻県庁があった。
日本化成研修センター・社宅の間の道を進むと左側に明治に消失し近年に新築された観音寺がある。ここには岩鼻河原刑場の貯めの
供養塔、岩鼻陣屋初代代官吉川栄左衛門の墓がある。121号線に出る。約350mの新柳瀬橋北信号交差点で国道17号線を横断し
て県道121号線の坂を上がる。上り切ったところで、JR線高崎線の「倉賀野宿1.0Km」標柱の立つ陸橋を渡る。

北向き神社 岩鼻陣屋(県庁)跡 観音寺 供養塔・顕彰碑 そば・宿場

陸橋を下り、しばらく歩く。分かれ道は旧中山道、右手を進み5分程で右側に赤い閻魔堂のある下町信号三叉路(追分)の信号になる。
この三叉路は、例幣使街道と中山道との合流点で、道標、常夜灯が建っている。ここからが
倉賀野宿となる
例幣使街道:江戸時代、家康の命日の四月十八日に行われる東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使のことで、幣帛(神への供え物の
総称)を運ぶことから例幣使と呼ばれ、その通った道が「例幣使街道」と呼ばれていた。

梅の木大神碑
(陸橋より)
下町・追分
道標
(例幣使・中山道)

常夜灯

(例幣使・中山道)
閻魔堂・閻魔様

例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野で中山道と分かれる経路で日光に向かい、この閻魔堂の辻が例幣使街道の始点となっていた。
例幣使は、1647年(正保4年)の第1回の派遣から、最後の1867年(慶応3年)の派遣まで221年間の間、1回の中止もなく継続され
その三角地帯に、「従是 左日光道 右江戸道」と記された、道標と背後に高さ3、73mの常夜燈が建っている。
常夜燈:1814年(文化11年)上野国那波郡五科の高橋光賢が建立し、寄進者に雷電為右衛門、市川団十郎など38名。
宿場通りの121号線を進み、下町と中町の境に架かっている太鼓橋(現在はコンクリート橋)から冠神社(太鼓橋の橋桁が残っている)
121号線に戻り、中町信号交差点を横断する。左側の交番先に、左から順に「中山道倉賀野宿」碑、道祖神、灯籠が残されている。
ここまでの街道沿いには当時を思い起こさせる白壁・格子戸の旧家が残っている。

旧家 白壁の旧家 格子戸の旧家 太鼓橋跡 太鼓橋橋桁
(冠神社境内)

続いてベイシアマート駐車場に「本陣跡碑」、次の倉賀野駅入口信号からT字路左側に「中仙道倉賀野宿 中町御傳馬人馬継立場跡」
碑が立って(立場のあった場所は交差点斜向かい)いる。信号を渡り、その先に「須賀庄兵衛脇本陣跡碑」、道を挟んだ反対側、須賀邸
塀の前に「須賀喜太郎脇本陣跡碑」がある。続いて右側に、復元された高札場が建られている。

中山道倉賀野宿碑 本陣跡碑
立場跡
脇本陣跡碑 脇本陣

すぐ先の横断歩道を渡り、細い道(牛街道・うしかいどう)を下る。この道は河岸から脇本陣まで荷を牛で運んだ道である。突き当りには、
「倉賀野河岸跡案内板」、大杉神社跡の碑、下流の共栄橋脇には「倉賀野河岸跡碑」が建っている。

元の道を戻り、坂道の左側は倉賀野譲三の丸跡に八幡神社がある。烏川を見下ろす道の先には戦国時代まであった倉賀野城の石碑が建っている。ここからは午後の陽射しに照らされ光る川面の烏川が美しかった。

高札場跡 倉賀野河岸案内板 倉賀野河岸跡碑 倉賀野城址碑 烏川の流れ

本陣跡まで戻り、今日の行程は無事終了。群馬に入り街道歩きの醍醐味をたくさん感じられてきた。



今日のコースは 行在所跡→於菊神社→新町駅入口→旅籠高瀬屋跡→宝勝寺→小林本陣跡碑→弁天橋→弁財天・芭蕉句碑→日本スリーデーマーチ
  発祥の碑→伊勢島神社→川端家住宅→中山道・お伊勢の森→(三菱鉛筆工場)→渡し場跡→柳瀬橋→赤城神社→北向子育て観音→岩鼻岩鼻代官跡
  ・陣屋・岩鼻県庁跡→観音寺→倉賀野宿案内板→下町・追分常夜灯・・閻魔堂→中山道倉賀野宿碑→本陣跡碑→立場跡碑→脇本陣跡碑→ 高札場→
  倉賀野河岸→八幡神社(三の丸跡)→倉賀野城址神社→倉賀野本陣跡


 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第12回 新町宿〜倉賀野」 街道案内人 大野正實 歴史講師

2011.10.18 新町宿〜倉賀野    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ