三島宿から沼津へ・・江戸日本橋から三島宿まで112Km、三島宿〜沼津間5.9Km 

三島宿:日本橋から11番目の宿。三島宿は箱根八里を控える宿場として重要な役割を果たすとともに、伊豆半島の文化、産物の流通の
中心という役割も果たしていた。町には富士山の雪解け湧水が豊富な水量で幾筋も流れている、水の町である。
本陣:2軒、脇本陣:3軒、旅籠:64軒

街道歩き「東海道」も一番距離の長い(宿場の数も多い)静岡に入った。朝からの快晴に恵まれた今日は、三島宿から沼津までである。
往路の東名を走るバスの車窓から、三嶋から沼津まで、帰りの渋滞の車窓から・・一日、頂きを白に染めた富士山を見ることが出来た。
講師の粋な計らいで、午前のやさしい光に映える富士山の湧水「柿田川湧水」の流れを午前中に見る事ができた。小松宮彰仁親王縁の、
「楽寿園・楽樹館」の建物・庭園内をゆっくりと見学できた。折しも園内は「菊まつり」を開催中で「金色堂」の菊人形・・?は昨日見物した、
弥彦神社の菊人形「三保の松原」のスケールは菊人形の域を超える規模であった。

柿田川 柿田川湧水 楽寿園庭園 楽寿館 金色堂(菊人形)

七五三参りの親子連れで華やかな、三島大社は前回のゴールであったが、湧水の流れを見ながら少々戻り、お参りしてからのスタート
となる。湧水の澄んだ流れのある街・・流れの中で身をゆだねる水草・・これが毎日の風景であったら・・贅沢かもしれません。
三島市内から沼津までは、それほど距離はないが、「街道歩き」の見所はたくさんあり、メモを取る・シャッターを押すと大忙しの午後から
でした。

三島大社を出て市街地を少し歩くと、中央町郵便局の壁に「問屋場跡」の案内板があり、前の歩道には「とんやこうじ」と書かれた金属の
プレートがはめこまれている。その先、歩道の蕎麦屋の前に「世古本陣跡碑」がある。道路を挟んだ反対側のお茶屋の前には「樋口本陣
跡碑」があり
、店の壁には本陣の案内板があり間取りも書かれており、間取り、規模を窺い知ることが出来る。

三島大社 問屋場案内板 とんやこうじプレート 世古本陣跡
樋口本陣跡

市街地を数分歩いて行くと、源兵衛川にかかる「源兵衛橋」左手のちょっと奥まったところの三石神社境内に時の鐘がある。

江戸時代の寛永年間から時を告げる鐘として親しまれていたもので、鐘は第二次大戦で供出されて消失したので、現在の鐘は昭和25年
に再興され、鐘楼もコンクリート製になった。


樋口本陣跡案内板
源兵衛橋
(源兵衛川)
三石神社 時の鐘 連馨寺

時の鐘の路地を出て少し歩き、反対側の奥にある連馨寺の境内には1778年(安永7年)建立の「芭蕉老翁墓」があるが正確には供養碑
であるとの事。連馨寺を出るとすぐ右側に伊豆箱根鉄道の三島広小路駅があり、そこで道は分かれる。
左手の方へ進むと右側に「伊豆国分寺」の立派な石柱が立っており、その奥に「伊豆国分寺」がある。ここは「国分寺の跡」であり、寺の奥
には国分寺七重の塔の礎石が残されている。住宅街を5分ほど歩くと左手に西見付跡の秋葉神社がある、小さな石碑が入口隅に立って、
見付の跡である事が判る。その斜向かいに「千貫樋」の案内板が用水路の上にコンクリート製(再建されたもの)の樋である。
千貫樋:天文24年(1555年)に、今川、武田、北条の三氏が和睦した際に、北条氏康から今川氏真に婿への引出物として楽寿園小浜池
から長堤を築き、その水を駿河の今川領に送水したというのが一般的で、名前の由来については、この樋が銭千貫に値するからという説、
樋が高千貫の土地を潤すからという説、樋を造るのに銭千貫が掛ったという説があります。

芭蕉供養碑 伊豆国分寺 国分寺跡礎石 秋葉神社
(西見付跡)

千貫樋(画像中央)

「千貫樋バス停」を少し過ぎた歩道の右側に美しい姿の常夜灯がある。この灯の両側には秋葉大権現と富士浅間宮の火を鎮める神様が
刻まれていて、1846年(弘化3年)に建立されたもの。この常夜灯あたりから三島市から清水町へ入ることになる。

交通量が多く狭い歩道を歩いて行くと、左側の宝池寺門前に江戸から29番目の伏見一里塚がある。この一里塚は近年復元されたもので
あるが、道路の反対側にある玉井寺境内にある一里塚は原型を留めているという。

寺山門の左側には「三界萬霊等」と書かれた「白隠の遺墨」の石碑が立っている。

千貫樋(案内板)
常夜灯
伏見一里塚
(宝池寺川)

伏見一里塚
(玉井寺側)

白隠の遺墨

さらに10分ほど歩くと右に八幡神社がある。境内は広く奥まったところの社殿の左側に対面石の案内板と二つの石がある。この対面石は
案内版によると「1180年(治承4年)10月、平家の軍勢が富士川まで押し寄せて来た時、源頼朝が鎌倉からこの地に出陣してきて、奥州
からかけつけて来た義経とここで対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。この対面のとき兄弟が腰をかけた二つの
石を対面石という」とある。八幡神社をでるとすぐ黄瀬川に出る。この川を渡ると沼津市に入る。ちなみにこの寺は拝殿扉がオートドアである。

富士山や愛宕山から流れ出た水が合流した黄瀬川を渡って500m程行った右側の潮音寺境内には亀鶴姫の碑がある。諸説があるなか
「亀鶴姫は以前亀鶴観音寺の本尊として曽我兄弟の仇討ちに登場する黄瀬川宿の遊女」の説が有力で、同寺が廃寺になった明治12年
にこの潮音寺に移された。  

長澤八幡神社 対面石 黄瀬川 黄瀬川橋からの富士 亀鶴観音寺

潮音寺のすぐ隣の民家の敷地に「従是西沼津領」と書かれた「傍示石(つじぼういし)」が立っている。道なりに進むと県道と合流、そこから
600m程歩くと分かれ道になる。左手が旧東海道となる。さらに狩野川(今回は堤防上を歩いた)を左にして約500m行くと黒瀬橋を潜った
すぐ左側に小さな平作地蔵がある。

案内板によると樹瑠璃「伊賀越道中双六」に登場する沼津の平作のゆかりの地である。「ここで茶店をしていた亭主の平作が、通りかかった旅人の重兵衛から娘お米の夫の仇河合又五郎の行方を聞き出すが、なかなか口が堅かったため、腹を切って頼んだ。

重兵衛は平作の心にうたれ独り言の形でお米に又五郎の行く先を教えた。お米からこの情報を聞いた渡辺数馬は義兄の荒木又右衛門の
助太刀を得て、首尾よく本懐を遂げた。」という日本三大仇討ち(忠臣蔵:赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ち(荒木又右衛門の仇討ち)、曾我兄弟の仇討ち)の一つとのこと。
そして平作爺さんの義挙は人々の心をうち、茶店のあったところに地蔵堂が建てられた。

亀鶴姫の墓 傍示石 左手・旧東海道 狩野川 平作地蔵・祠

地蔵堂から少し歩くと、右側の小公園に江戸より三十里の「沼津一里塚」がある。宿場内に塚を造るのを避け、やや江戸よりの日枝神社の
参道わきに造られたと説明にある。立て看板の下には、古代人が玉造をしたときに、使った研磨用の大きな石「玉砥石」がある。

平作地蔵説明板 沼津一里塚 一里塚案内板 玉砥石 玉砥石案内板

この一里塚が今日のゴールである。その先は県道と合流し沼津市街に入る。



今日のコースは 三島大社→問屋場跡→世古本陣跡→樋口本陣跡→三石神社・時の鐘→連馨寺・芭蕉供養碑→伊豆国分寺→西見付跡・秋葉神社→常夜灯
  伏見一里塚・玉井寺・白隠の遺墨碑→宝池寺→八幡神社・対面石→潮音寺・亀鶴姫の墓→平作地蔵→沼津一里塚・玉砥石

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第14回 三島宿〜沼津」 街道案内人 根津信年 歴史講師

Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
2011.11.13 三島宿〜沼津    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ