Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・

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  板鼻宿から安中宿へ

板鼻宿:宿場は本陣1軒脇本陣1軒で、旅籠は60軒ほどと多く商店・茶屋は90軒も並んでいた。宿場はずれの
碓氷川の渡し場は、水高の要害地の徒歩の渡しで中山道一の難所であり、増水の川留めで多くの旅人が宿に
逗留するために宿場は繁盛した。

幕末には天領として幕府直轄地となる。

板鼻本陣跡の板鼻公民館には、皇女和宮が宿泊した旧本陣書院が残されており、入口花壇に、まだ新しい「(板鼻)本陣跡」碑が立って
いる。入口から中に入り、公民館の右奥に窓を閉め切った旧本陣書院がある。木崎家本陣の数百年前に建設されたの付属書院であったもので当時の面影が残っており、皇女和宮が降嫁のため江戸へ向う途中の1861年(文久元)年11月10日この書院に一泊している。
皇女和宮縁のもの、当時の資料が残されている。今日の街道歩きはここからの始まりである。

書院裏を流れる板鼻堰用水路は約400年前に開鑿されたもので、鷹之巣山麓から鳥川まで延長115Kmに達する。 街道に戻り先に進み、左側の小さな「いたはな公園」の反対側の広場に、左から順に青面金剛、猿田彦天神、双体道祖神がある。

周囲の様子からして、周囲にあった物をものをここにまとめたものではないかと思う。街道に戻り、右側には水を一杯にして流れる板鼻
用水の綺麗な流れが見られる。なお、英泉の描いた「板鼻」はこの地であると言われている。

この辺りで宿場通りは終わり。 その先のゆるい坂道を上り、奇妙な光景が・・神社名の描かれた石柱に灯篭群、鳥居に太鼓橋その先は
道路で遮断されている。バイパスが出来た時に参道が切られてしまったとの事、神社は崖の上にあるらしい。県道17号線の鷹之巣東
信号交差点に出る。旧中山道は17号線を横断して直進するが、途中道が消滅しまた碓氷川の渡船がないので、17号線を左折して鷹之巣橋を渡って進む。左側斜面には東邦亜鉛工場の全貌が拡がる。碓氷川にかかる鷹之巣橋から、旧道が渡船した右手の碓氷川の上流は川底の石が露出しているほど浅い川であるが、当時はそれなりの川の流れがあったと思う。橋を渡り切り中宿信号交差点から左折し、
寄り道「蓮華寺」創建寛喜3年(1231年)栄朝が開山したのが始まりと伝えら、凍りついた池の中から蓮の花が氷を破りせり上がってきたことから蓮華寺と称するようになった。境内には慈覚大師縁の雉子観音堂が文化13年(1817年)に移されている他、開山堂には像高
108cm、寄木造りの木造栄朝禅師座像が安置され群馬県指定重要文化財に指定されている。元に戻り県道を右折し、細い舗装道を進み、すぐ先の丁字路で先ほど消滅した旧中山道と合流して左折して進む。 ひっそりとした通りは何故か当時の面影が残っているようにも
思える。数分進み、通りの中ほどの藤野屋商店の十字路の左側角、山道の面に「庚申塔」、左折する道の面に「是従 一宮 大日 街道」と刻まれている道標が立っている。

その先で道は2つに分かれ、右の道を進む。 突当りの碓氷川の石積堤防のところで旧中山道は消滅する。堤防手前の左側の民家の敷地角に石碑があり、「蠶養神」と「道祖神」である。蠶は「かいこ」と読み、昔この辺りでは養蚕が盛んだった名残である。

右側には堤防をバックに左折して堤防沿いに進み、続いて堤防上にあがり進む。橋の近くで左に降りて民家の庭の細い側溝の上を通っ
て道に出て、久芳橋へ上がる。橋の上から左手丘の上には、東邦亜鉛工場が正面に見える。
右手の碓氷川は当時渡船したところ。

安中宿:安中はその昔、野後という地名であったが、1559年(永禄2年)越後新発田から移った安中忠政が城を築いて安中城と称した
ことから、安中の名前で呼ばれるようになった。
1615年(元和元)伊井直勝が下野尻村から上野尻村までの約407mの細長い町を作り、ここに65軒の家を建て伝馬宿としたのが、安中宿の始まりである。

本陣1、脇本陣2、旅籠は17軒あり、城下町でもあったが小さな宿場であったと記録にはある。

そのため中山道の定式人馬の50人、50匹の役務を果たすのが難しく、それぞれ半減の特例を受けていた。安中は1783年(天明3年)の「浅間山大爆発で壊滅的な被害を受けている」とこれも記録にある。

久芳橋を渡り、安中町に入り18号線にかかる横断歩道橋を渡る。下野尻信号交差点の18号線から左に別れる道が、先ほど消滅した
旧中山道となる。歩道橋を下るとすぐ左折して、県道48
号線の旧中山道をまっすぐ進む。

交差点を過ぎ、樹齢1000年の大ケヤキのある熊野神社への参道看板がある。この向かいにひっそりと「安中宿下木戸跡」の案内板が
(木製)がある。熊野神社は安中市の重用指定文化財で、1559年(永禄2年)安中越中守忠政が安中城を築城した時、城の守護神として勧請した。明治以前は熊野大権現とよばれていたが、明治初期の廃仏毀釈により、熊野神社になり近郊の総鎮守となった。
神社の脇には「「安中城東門跡」の木製案内板、西広寺の北門を入ると、非戦の先覚、無戦世界の出現を期すると説いた「柏木義圓」の
墓、安中城主であった井伊家の墓、五輪の塔が建っている。寺を出て元の道を下り、街道に出る。「伝馬町」の標識がかかっている通り
の左側に当時の面影を残す建物が並んでいる.

街道の郵便局敷地内に「安中宿本陣跡碑」年賀はがきの赤い桃太郎旗でちょっとわかりにくい場所であった。先に進み、伝馬町交差点
を右折し坂道を上る。坂の突き当りに、明治44年(1911年)再建された「旧碓氷郡役所」でほとんどが当時のまま保存され、多くの資料
が展示されている。郡役所の左側の道を挟み、1878年(明治11年)日本人が創立した日本初のキリスト教会「安中教会」がある。
1919年(大正8年)教会設立の中心となった新島襄召天30年を記念し、新島襄記念会堂が建てられた。
協会の前の通りを進みマラソン大会中の安中小学校正門前には「安中城址」の石碑があり、文化会館の入口脇には「安政遠足」「日本
マラソン発祥の地」の碑が建っている。

安政遠足(あんせいとおあし):安中藩が安政年間(1854〜1859年)に士族、住民の士気を鼓舞するため始めたマラソンで、安中城
(現在は文化会館)を出発して松井田、横川、坂本を経て碓氷峠の熊野神社までの約29Kmを走るレース。

現在も「安政遠足侍マラソン」として毎年5月の第2日曜日に開催されていて、日本マラソンの発祥の地と言われている。

伝馬町交差点に戻り、なだらかな坂道を上る。右側の1832年(天保3年)創業の味噌・醤油醸造の有田屋は、明治・大正、昭和の3代
に亘って日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出し、3代目当主湯浅治郎は1872年(明治
5年)日本最初の私立図書館、便覧社を創設したことでも知られる。道の左側に明治20年に焼失た便覧舎跡碑がある。

すぐ先の細い道を左折、約100mほどのところにある「龍昌寺」は日本で初めて百八つの鐘を搗いた寺。 街道に戻り、左側には大きな
石の道祖神があるが文字が見えず、ただの庭石のようである。
その先、左側の安中上野尻郵便局敷地に安中大木戸跡碑があり、この
辺りまでが宿場通りである。道はまたゆるい上り坂となり、その数分先の左側に「新島襄先生旧住宅入口」石碑があり、案内板に沿って
住宅害を歩く。安中市に入ると、頻繁に「新島襄」の名前が出てくる。同志社大学の創始者の新島襄は江戸神田一ツ橋の安中藩邸で生
まれたが、安中の地には密航先のアメリカから帰国したあと3週間ほど住んだ(滞在と言った方がよいのかも)ところだという。
ボランティアの方の親切、丁寧な説明を聞くことが出来た。

街道を少し歩くと、右側に「昭和8年文部大臣指定」「天然記念物安中原市ノ杉並木」石碑が立っている。杉は江戸時代初期に植樹されたもので1844年(天保15年)731本あったものが、現在は姿かたち全く消えてしまっている。ちなみに文部大臣が指定した昭和8年には321あった(現在は指定解除になっているとの事)という。杉のない並木を進み、安中実業高校前信号交差点手前右側に「原市の杉並木・直進」標識がある。

国道18号線との交差点を直進した「原市の中山道」はゆるい上り坂で、閑静な住宅地の中を進む。左側に歴史を感じさせる白壁土蔵の
建物がの残っている。そして杉並木となるが、大木の中に樹齢の若い杉(のちに植樹されたものであろう)がある。
右側に高級料亭を思わせるような「並木苑」・・我々には無縁の存在かもしれない。いつの間にか杉並木は途絶え、左側に「天然記念物
安中原市ノ杉並木」石碑があり、ここまで並木が続いていたのであろうと思わせる。

並木の石碑から約10分ほど進むと、右側に「原市村戸長役場跡」表札をかけた家がある。その反対、左側の民家の敷地に「原市高札場跡」の案内板があり、その向かいには眞光堂(跡)がある。堂と鐘楼があるのみだが、この金はこの地の時の鐘であったとの事。

しばらく歩くと、中山道はゆるい下り坂の県道216号線となり、原市第二中学校を過ぎ、その先、坂の途中左側に、白壁と格子が美しい
「八本木旧立場茶屋」跡がある。道の反対の右側に、市指定重要文化財八本木延命地蔵菩薩像尊がある。総高1.15mの像は室町時代初期の作品で、日本三地蔵(新発田、壬生、八本木)の一つといわれている。また、ここの庚申塔は石祠の庚申塔である。

地蔵尊から約20分ほどのところに立派な石垣がある。こんなに大きな石を使った石垣はなかなか見ることはできない。

しばらく歩いた先の右側に、新しい石鳥居の村社日枝神社と自性寺が参道を挟んで並んでいる。村社日枝神社は、古文書の絵図にも
記載されているが創建不祥で現社殿は明治44年に再建されたもの。

自性寺は新島襄先祖菩提寺で、アメリカにわたり英詩の訳で知られた地元の磯貝雲峰の墓もある。 道はゆるい上り坂となり、この辺り
から道の正面に独特の険しい表情をした妙義山の姿がはっきり見えるようになり、
相当内陸深いところに来たことを思う。

10数分進むと、道は下りになり突当りの丁字路で18号線と合流する。旧中山道はその手前の右側で坂道を下るとある。
信号のある丁字路の先に妙義道追分の「郷原常夜灯」が少し傾き加減で立っている。これも道路建設でうつされたとの事。

夕暮れ時の田園風景が拡がる。遠くには妙義山のシルエットが見え、至福の景観である。ちなみにこの地から見る妙義山の姿は、国道18号線から眺めた妙義山を拡大したもののようである。
ゴールはここのセブンイレブンである・・一日の渇いた喉を癒すのは誰も「缶ビール」である。


今日のコースは 木崎本陣跡(板鼻公民館)→本陣跡碑→(板鼻用水)→石仏・道祖神→鷹ノ巣橋→庚申塔・道標→蠶養塚・道祖神→久芳橋→熊野神社→
  旧碓氷郡役所→有田屋便覧社跡→山本有所旧宅跡→立場茶屋跡→地蔵菩薩像→龍昌寺→常夜灯→安中大木戸跡碑→道祖神→新島襄旧宅→杉並木
  →役場跡→高札場跡→八木延命地蔵尊→日枝神社・自性寺→郷原常夜灯


 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第14回 板鼻宿〜安中宿」 街道案内人 大野正實 歴史講師

2011.11.22 板鼻宿〜安中宿    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ