関東駅100選に選ばれている赤レンガの「JR深谷駅」の前には地元の名士である「青淵・渋沢栄一翁」の銅像が駅を見据えている。
今回は街道を少し戻り、松平康直が創建した「参考院に立ち寄る。 上杉氏が滅び徳川家康の時代になった時、江戸時代 の深谷城の
初めての殿様が松平源七郎康直であった。
真新しいビルの前には「笛吹童子」?と思わせるような「笛を吹く武士」像がある。ここが深谷城の大手門の址である。深谷城址も今は
公園となり往時の面影はなく案内板だけが頼りである。公園の先には富士浅間神社がひっそりをした佇まいの中にある。江戸の時代
には「千形(智形)神社」と呼ばれ、今も当時の面影を残す外堀が残っている。


JR深谷駅

渋沢栄一像
三高院 深谷城址公園 深谷城外堀址

公園を出て街道に戻る、飯島印刷所前に飯島家「深谷本陣遺構」案内板。ビルの奥に上段の間、次の間、入側が残されている。続いて
右側に、江戸時代からの造り酒屋「七つ桜」看板の田中家。宿場通りの
265号線をしばらく進み、左側に古い商家建築の滝澤酒造
その先右側に、宿場西口に設置された約高さ4mの1840
年(天保11に)建立された常夜灯が当時のまま残っている。

富士浅間神社 飯島本陣跡 七ッ桜・田中屋 菊泉酒造
西方・常夜灯

すぐ先の十字路を、直進する。しばらく進み、押しボタン信号先左側角に「清心寺」の立看板。看板の立つ細い道を左折しJR高崎線踏切
を横断した突当りに、境内に一の谷合戦で敗れた平家の知将・平忠盛(平清盛の弟)の供養塔(五輪塔)がある清心寺。
清心寺:忠盛を討ち取ったこの地の武将・岡部六弥太忠澄が、その菩提を弔うため領地で一番景色のよいこの地に五輪塔を建てた。
寺は後世の1549
年(天文18)深谷上杉氏の重臣・岡谷清英が創建したもの。 元の道に戻り、道はゆるい下り坂となり、途中左折
する265
号線と分かれ、清心寺看板から約7分ほど先、宿根信号交差点で17号線を横断する。

清心寺 宿根交差点
右側中山道
瀧宮神社 安倍氏代々藩主の墓 岡部本陣跡

交差点を渡った右角に、宿根総鎮守宮神社。
宮神社:1496年(明応5)大旱魃に見舞われたとき、領主加賀守呑丹がこの地を選定して掘ったところ、水が湧き出し農地を潤した
と言われ「池」がある。この池は謂れに基づき近年に造られたらしい。これを神の恵みとして社殿を建て、
宮神社として崇めた。
道なりに進み、突当りで17
号線と合流し右折する。17号線を少し進んだところが、特に標示がないが深谷市と岡部町の境界で、その
先の岡部(南)信号交差点直進する。しらく進み、右側に「源勝院」立看板が見える。看板から小路を右折した突当りに、岡部藩主安部
信勝の創建で、安部氏菩提寺の源勝院、境内には安部氏二代から十三代までの藩主の墓がある。
元の道に戻り、すぐの岡部(北)信号丁字路
を直進する。寄道となる丁字路を左折し約150mほど先に「是ヨリ百米高島秋帆史跡」石柱
から右折し左側の岡部藩阿部氏陣屋跡一角に、高島秋帆幽囚の案内碑。
高島秋帆:江戸時代の西洋砲術の第一人者で、高島流砲術の創始者。幕府に西洋式砲術を建議し採用されたが、鳥居
耀蔵の中傷で
投獄され、岡部藩預かりとなってこの陣屋に幽閉された。藩は秋帆を客分扱いで厚遇し藩士に兵術を学ばせ、その後冤罪が晴れ幕府
砲術指南となる。

岡部本陣案内板
普済寺・忠澄の句碑
六弥太忠澄の墓所
忠澄の墓レプリカ
(岡部道の駅)
岡部氏領地を望む

元に戻り、17号線を進み岡部信号交差点の先右側に、「普済寺入口」立看板を右折し突当りに、源平合戦で平忠盛を討った岡部六弥
太忠澄の開基普済寺。元へ戻り、17
号線を約10分程進んだ分かれ道は、17号線と分かれ右手を進む。街道との間に挟まれた場所
に芭蕉の雲雀句碑が建てられている。その少し先に「江戸から21里」の一里塚があったと言われるが、何も残っていない。

雲雀句碑 島護産泰神社 願いの柄杓 岡廻宮神社 拝殿の彫刻

約1Kmほど進み、右側に日本武尊の創建とされる沢郡の総鎮守島護産泰神社がある。 さらに進み交差点を直進し、その先神社か
ら約10
分の分かれ道は左手の坂を進む。その先約80mの右折するところに、「百庚申100m→中山道」標識に従い、右折して豊見坂
を下ると、左側八坂神社の脇の斜面に1860年(万延元)庚申の年、村の有志で建てられた百庚申塔並ぶ。
その先突当りの17
号線土手を迂回、右折して坂を道なりに左にカーブして、17号線に出る。17号線岡(西)信号交差点を横断する。
道なりに約4分進み小山川にかかる滝岡橋を渡る。

中山道案内 百庚申 滝岡橋・先には男体山 旧中山道 案内板(手作り?)

本来の中山道は、信号から現在の道の左手を通り対岸に続いている。小山川にかかる滝岡橋から眺めることが出来る。橋の正面先に
男体山のy山頂を眺められた。小山川の中ほどが深谷市と本庄市の境界で、橋を渡ると本庄市。

橋を渡り、道なりに左にカーブして進む。 その先の右にカーブする辺りが、消滅した対岸からの旧中山道が接続するところ。

カーブして道なりに進み、田園風景の中正面の鉄塔に向かい突当りで左右にカーブし、最近整備された道を進み右にカーブする突当り
の細い道入口に、3本の標識があり、うち1本「この先通り抜けできません」。
現地では分かりにくい標識で中山道」標識を立てておいて
もらいた
い。小さな立て看板の「中山道」標識の立つ左手を進む。その先で県道45号線ガード下を潜り、出口右側の手すりの「中山道」
標識に従い階段を上る。
階段を上りきり、道なりに左折して草むら道を進み、県道258号線と合流(し左折して進む。その先藤田小学校
前信号交差点で、右折する
258号線と分かれ直進する。

道路標識にも 八幡大神社 神楽案内板 法珠寺・山門 法珠寺・本堂

左側に、牧西広末が鎌倉八幡宮を奉還して1471年(建久6)建立八幡大神社がある。八幡大神社:一度焼失したが、依田(のち宮崎
に改姓)五郎左衛門が1612
年(慶長17年)再興し、代々神主を務めた。ここで奉納される神楽「金鑽神楽宮崎組」は本庄市指定文化
財で「神楽に使われる面は1711
年(正徳年間)以前の古いもの」と案内にある。向かいには法珠寺がある。
さらに進み、ゆるい右カーブ先小川宅助郷用長屋門、
さらにその先の牧西信号交差点を進み、その先住宅のまばらになるところの左に
カーブする右側に、子育て地蔵と石仏群。子育て地蔵の社の札:「お地蔵様御真言「おんか、か、か、びさんまえい、そわか」これを三回
又は七回唱えて
下さい」とある。

助郷用長屋門 (左側に)子育て地蔵
庚申塔」
御堂坂・庚申塔 圓心寺・赤門 圓心寺・本堂

続いて右側に、白壁壁は少々剥がれているが、内野歯科医院の助郷用長屋門。その先の突当り、追分となっている「傍示堂」を見て
道なりに左折し、元小山川にかかる新泉橋を渡る。向かいのコンクリ^と会社あたりに「江戸から22里」の一里塚があったと言われる。

道なりに右にカーブして進み、諏訪町信号交差点で17号線を横断歩道橋で横断し、県道392号線のゆるい御堂坂を上る。このあたり
当時は荒涼とした土地であったと言う。野仏と庚申塔が祀られていた。だらだら続く上り坂の本庄東中前信号、東台四丁目信号、続いて
そのものずばりの「中山道交差点」信号交差点
を直進する。
本庄駅入口手前に赤門の圓心寺がある。圓心寺:武蔵野国北部所在の後期本庄城の城主である小笠原信之が亡き母の菩提を弔う
目的で天称9年に建立されたと伝えられている、信之は実父の酒井忠次の為に堂宇を建立。当時の山号は秀徳山であったが、元禄に
改め、要行山とし、鴻巣勝願寺末となった。山門は天明間に建てられたと伝えられ、その色から「赤門(あかもん)」の名で地元の人達
に親しまれ、参詣対象となっていると言う。
信号を渡り正面にはゴールの本庄駅が見える・・夏はこの時間も陽も高かったが、秋の日が斜めに射していた。


今日のコースは JR深谷駅→(三高院)→(深谷城址公園)→(富士浅間神社)→飯島本陣跡→7ッ桜・田中屋→西方常夜灯→清心寺→瀧宮神社→
  源勝院→陣屋跡→普済寺→雲雀塚碑→島護産泰神社→百庚申→滝岡橋→中山道案内板→45号線地下道→八幡第神社→子育て地蔵→助郷用
  長屋門→傍示追分→新泉橋→御堂坂→庚申塔中山道交差点→圓新寺→JR本庄駅


 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第10回 深谷宿〜本庄」 街道案内人 大野正實 歴史講師


地図をクリックで拡大
   深谷宿から本庄へ

深谷宿:深谷上杉氏城下町として栄えたが、江戸時代初めに廃城となった後、深谷宿が成立した。
宿は「五十の市」で賑わっただけでなく、熊谷宿が飯盛女を置くことを禁じていたため、深谷宿に宿泊する旅人でも
賑わい旅籠は80
軒もあった。浮世絵師渓斎英泉に描かれた「遊女の宿」で、その名残が「見返りの松」。

深谷の地名は、東部を北流する唐沢川が深い谷を形成していたことにより、名付けられた。
深谷は煉瓦(現在は生産はない)、深谷葱、深谷瓦が有名である。

本陣1軒、脇本陣
軒。

Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・
深谷特産の葱畑
2011. 9.27 深谷宿〜本庄    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ