Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん中山道を歩く・・

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   本庄宿から新町へ

本庄宿:中山道最大規模の宿場。
宿場発展の最大の要因は、利根川の水運の集積地として賑わったことで、陸上交通においても、越後、信州など

周辺各地への分岐点であった。宿場は何度も火災にあい、当時の面影を残す建物は極わずかで明治時代以降
ものが多い。


本庄の地名:平安時代後期から武蔵国の勢力を伸ばした武蔵七党の武士団・児玉党の拠点となった。
首領は荘(庄)を名乗り、その後分家が進み本家を本荘(本庄)と言ったのが、地名の起こりである。

本陣2軒、脇本陣2軒。


本庄駅から駅入口信号交差点を直進する。10分ほど歩くと城をイメージして設計された「本庄市役所」が右手に見えてくる。市役所の
右手路地を行くと本庄城址の石碑のある。城址を思わすものは何もない。天然記念物の大ケヤキのある城山稲荷神社の奥を流れて
いるる川が掘割だったと思われるとの説明があった。

駅前通りの庚申塚 城山城址
城山稲荷神社

城山稲荷神社
大ケヤキ

田村本陣跡
本庄宿を語るには
戸谷商店

元の道を戻り駅前交差点右角の埼玉りそな銀行辺りが、田村本陣跡である。宿場通りを進み、左側東和銀行と足利銀行辺りが内田
本陣跡。 さらに進み右側の戸谷商店の奥には蔵が続く、マツモト店と田屋店の間の路地の突当りに、本庄領主小笠原信嶺が
1591
年(天正19年)開基の、信嶺夫妻の墓もある開善寺がある。

内田本陣跡
遊郭があった路地
愛宕神社と庚申塔 開善寺 信峯夫妻の墓

中央3丁目信号を右折し、最初の信号を右折したところに、左から順に「田村本陣跡」から移築された市指定文化財の「田村本陣門」、
「旧本庄
警察署と田村本陣の門」石碑、明治の洋風建築物として全国的にも例の少ない、明治16年建築の旧本庄警察署で、現在は
歴史資料館となっている。
続いての同じ名前の中央3丁目信号(同じ名前の信号だった)から右折し、突当りに、武蔵7党の児玉党の
一族本庄信明の弟藤太郎が仏門に帰依し、1475年(文明7年)開基、徳川家光より25石の御朱印を拝領された安養院がある。

内田本陣門
案内板
旧本庄警察署
歴史博物館
安養院 安養院・墓碑

その裏手には「普寛霊場・普寛上人の墓」の御嶽山神社、この神社拝殿天井の龍の彫り物(ここは絵ではない)は見事だった。
その奥には山と雨乞い信仰の「阿夫利天神社」がある。

安養院・本殿 普寛霊堂案内板 普寛霊堂
御嶽山神社
御嶽山神社
拝殿天井の龍
阿夫利天神社

信号に戻り、8分程歩いたの右側に、彫刻を施した丹塗社殿の本庄宿総鎮守541年創立の金神社、境内には、県指定天然記念物
の樹齢350
年の巨木クスノキが聳えている。木の大きさ、高さを写真で表現して残すのは難しい・・元に戻り392号線を進み、すぐ先の

旧本庄商業銀行
倉庫跡
神社
クスノキ

本庄宿道標
浅間山古墳

千代田3丁目信号交差点を右折する。その先、横断歩道橋を渡り、ひっそりした住宅街を進み、左折するが中山道標識はない。
突当りで県道392号線と合流右折して進む(この先約2Km先に「一里塚跡があると説明があった。小島4丁目信号を直進、392号線
を約15分程進んだところの上里町標識で、
本庄市から上里町に入る。 上里町を数分進んだ左側に赤い鳥居のある直径約38m高さ
約6m浅間山古墳、頂上に全長約9.5
mの横穴式石室がある。特に案内などなく注意しないと見過ごしてしまいそうだ。

泪橋跡石碑 薬師堂 庚申塔・馬頭観音 月待ち庚の碑 八幡神社

そのすぐ先、丁字路右角民家の敷地?角に「泪橋跡と泪橋由来石碑」がある。
泪橋:幕府の伝馬役(助郷)の苦役に、どんな厳しいときでも伝馬の人々は当時ここにあった川の橋に憩い、家族を偲び、身のはかな
さを嘆じて涙を流したという。
392号線を進み、神保原陸橋(北)信号交差点で県道22号線を横断、右にゆるくカーブした道の先に用水路のような御陣場川にかか
る楠森橋を渡る。その先で左にカーブし392号線を道なりに進み、神保原1丁目信号交差点を右折し、さらに392号線を進み、
次の信
号交差点で国道17号線を斜めに横断する。金久保地区392号線を進み、左側の参道の両側に庚申塔や石仏が
並ぶ奥に小さな薬師
堂が建っている。

庚申塔 畑時能供養祠
朝鮮式銅鐘
武田信玄の妻の墓 陽雲寺

その先右側に、毎年10月に獅子舞が奉納される八幡神社があり、当時この前に高札場があった。道なりに左にゆるくカーブする手前
左側に、「陽雲寺」石柱がある。左折し、右折した参道奥に、武田信玄
ゆかりの重要文化財が保管されている陽雲寺である。
境内には国認定重要美術品1695年(元禄8年)鋳造の高さ190cm、口径98.3cm朝鮮式銅鐘がある。
参道入口右側に新田義貞の家臣で4天王の随一と言われ、義貞戦死後も南朝方のため孤軍奮闘し、1339年(歴王2年)加賀国で足
利氏に討たれた畑時能供養祠がある。

一里塚の碑
見透し灯篭
大光寺
神流川橋の灯篭
神流川

陽雲寺:1205年(元久2年)創建で当初満願寺と称していたが、1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造
立したことから新田勝軍不動堂と称され、その後金窪城主斎藤氏の加護を受け崇栄寺と号を改めたが、1582年(天正10年)神流川
合戦で焼失したと記録にあり、1591年(天正19年)金窪城主となった川窪信俊の養母・武田信玄の妻がこの境内に居住し、1618年
に(元和4年)没した。信俊は、養母の菩提を弔うためその法号・陽雲院をとって寺号を陽雲寺と改称した。
元の道に戻り左にカーブし、その先に、大きな「こけし」が校庭を見守る香美小学校・・信号交差点を進み、左側路傍に「埼玉県」碑を挟
んで両側に穏やかな顔をされた小さな石仏が2体並んでいる。近くは歩道の工事がされており、このお地蔵さんもどこかへ移動されるの
かな・・思う。

その先右側に、1800年(寛政12年)建立「庚申塔」と「石仏群」 さらに右側の民家に挟まれた社の左側に、一里塚跡碑が建っている。
その先勅使河原(北)信号交差点で、国道17号線と合流し右折して進む。 まっすぐな17号線を進み、神流川にかかる神流川橋を渡る。橋の欄干に復元された「見透燈籠」複製品の常夜燈、本物は近くの大光寺に移築されている。

見透燈籠:神流川は出水のたび川瀬の道筋が変化し、渡船場や橋の位置も変わり旅人、伝馬、人足たちを悩ましていた。
1815年(文化12年)本庄宿の戸谷半兵衛が、川の両岸に「見透灯籠」と呼ばれる常夜灯を建立し、夜往来する旅の目印とした。
当時の旧中山道は、現在の橋の左方にあり、本庄側から中洲までは仮土橋(満水時は渡船)を渡り、中洲から対岸の新町までは舟
で渡り、新町の神流川古戦場跡碑辺りで合流していた。 橋の終端に常夜灯(ここに「見透燈籠のいわれ」の案内板。
下り坂の歩道を進み、「群馬県」、「高崎市」境界標識で埼玉県から群馬県高崎市に入る。さらに下り、右側「ようこそ高崎市へ」看板
の裏側に「神流川古戦場跡」碑がひっそりと建っている。



道標
古戦場跡の碑
見透し灯篭レプリカ
八坂神社・芭蕉碑 諏訪神社

神流川古戦場:1582年(天正10年)織田信長が本能寺で倒された時、信長の仇をうつため関東管領「瀧川一益」は1万6千の兵を
率い京へ志したが、北条氏は五万の大軍を神流川流域に進め、この地で猛暑のなか瀧川軍が戦死者3760
人をも出すほどの大激戦
を繰り広げた、歴史に残る合戦であると記されている。

古戦場跡あたりで旧中山道と合流して17号線の坂を下り、平坦になったところの分かれ道は17号線と
分かれ、右手の県道131号線
を進む。三角地帯に再建(レプリカ)されたもう1つの見透燈籠、本物は高崎市大八木の諏訪神社参道入口にある。
(新町の)
見透燈籠:神流川が荒れるたびに川瀬道筋が変わり、夜道を歩く旅人を悩ましていた。新町宿と本庄宿の役人は、川の両側
岸に灯籠を建てて旅人の安全を図ろうと計画した。新町宿では、12年間建設費用を貯え1815年(文化12年)灯籠を建設し、人々は
この灯籠を見透燈籠と呼び親しんだ。この灯篭は国道17号線橋梁とと高崎線橋梁の間に在ったらしいとの説明。
1810年(文化7年)旅籠高瀬屋に宿泊した俳人小林一茶が、強制的に建設資金を乏しい懐から12文寄進させられていると言う。
この案内文から察すると、両岸の見透燈籠は新町宿・本庄宿が別々に建立したことになり、前述の本庄側案内文「戸谷半兵衛が両岸
の常夜灯を建立した」というのは、誤りのようである。戸谷半兵衛は前述した、本庄の戸谷商店の先祖である。
この灯籠には「従是 左江戸二十四里 右碓氷峠 十一里」と刻まれていて「
新町宿の入口道標」となっている。
すぐ先信号交差点を横断し、右側に当時大きな柳と茶屋があった八坂神社、その右脇に、宿の俳人らが1839年頃建立した「傘におし
わけ見たる 柳かな」芭蕉句碑。この句碑は明治維新の廃仏稀釈で、河原に捨て去られたものを、後に見つけ出されて戻されたもの
との事である

庚申塔
浄泉寺と大銀杏

高札場跡
明治天皇行在所跡
宿泊した建物
行在所公園

宿場通り(県道131号線)を進み、右側には笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られ、その後、現在地に移された諏訪神社。
鳥居は1731年(享保16年)の建立と案内にある。その先右側参道入口、参道奥に専福寺。さらに郵便局手前右側参道奥に、近代風
建築の浄泉寺、境内には高崎市指定文化財大銀杏が聳えている。要所に案内板がありとても分かりやすい宿場で
ある。
新町郵便局前信号交差点から県道178号線となり、次の信号交差点を横断した右側の、笠原邸門扉内側に「新町宿の高札場跡」の
白い碑が立っている。次の右側丁字路角に、明治天皇行在所跡
である、行在所公園と奥に明治11日明治天皇が宿泊された
建物があり、次回はここからスタート、建物内部を見学をできるとの話があった。

この頃になると「秋の日は釣瓶落とし・・添乗員さんの最後のお仕事が慌ただしく始まる。ローカル線の発車時刻に合わせ大奮闘
(挨拶・次回の案内・ガイディングレシーバーの回収等)が始まる。毎度の事、仕事はいえ、お疲れ様である。

皆さんは一電車でも早くと改札に急ぐが、私・いっちゃんの場合は、キヨスクへ・・缶ビールを購入。缶ビールを飲みながら、今日一日の
行程をレジメと事前学習?のメモ、歩きながらメモを書いた地図と共に振り返る。前回深谷駅では一電車のがした・・    



今日のコースは JR本庄駅→田村本陣跡→開善寺→田村本陣門→旧本庄警察署→安養院・普寛霊場・阿夫利天神社→金鑽神社→浅間山古墳→
  泪橋→御陣場川・楠森橋→薬師堂→八幡神社→陽雲寺→庚申塔・石仏群→一里塚跡碑→神流川橋・見透灯篭→(大光寺)→神流川古戦場跡→
  見透灯篭レプリカ→八坂神社→諏訪神社→専福寺→浄泉寺→高札場跡→行在所跡→JR新町駅
  →JR本庄駅


 クラブツーリズム 「街道を歩く 中山道69次 第11回 本庄宿〜新町」 街道案内人 長谷川和久 歴史講師

2011.10. 8 本庄宿〜新町    歌川広重渓斎英泉とが描いた中山道69次はこちらでどうぞ