Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん東海道を歩く・・
平塚の塚
高來神社
馬入一里塚
花水川

花水橋
京方見付跡
化粧坂
旧相模川橋脚
2011. 4.21 茅ヶ崎〜大磯(平塚宿)    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
お菊の塚
 
高麗山
脇本陣・高札場
問屋場跡
馬入橋
でかまん本舗
弁慶塚
第六天神社
化粧井戸跡
寛永寺の石灯篭
相模川
馬入川
鶴嶺神社鳥居
江戸見付
大磯八景
南湖の左富士
十間坂
JR茅ヶ崎
JR大磯

江戸日本橋から平塚宿(本陣:1、脇本陣:1、旅籠:54件)まで62.6Km

平塚宿は北条氏の築城で発展した町で、相模川を利用した物資の集散地や、東海道や中原往還、八王子街道の交通の要所として栄えた。

茅ヶ崎駅前集合。茅ヶ崎駅前の交差点脇にある「旧上野寛永寺石灯籠・4基」の建つ緑地が今日のスタート。信号の東側先には茅ヶ崎一里塚が
見える。国道1号線(東海道)を西へ進むと十間坂の交差点に着く、江戸時代には高台となっていて眺めは良かったそうだ。
十間坂2丁目を過ぎた所に権現造りの由緒ある「第六天神社」にお参り、千鳥破風と唐破風の権現造りの説明を聞く。

旧寛永寺の石灯籠 第六天神社
(権現造り)
千鳥破風(上)
唐破風(下)
南湖の左富士
曇りで見えず
南湖の左富士
2008.2下撮影

鳥居橋の手前で歩いてきた道を振り返る・・橋を渡った左側に南湖の左富士の碑がある。東海道のうち左手に富士山を見える場所はここと吉原
(静岡)の2ヶ所が有名。昔から茅ヶ崎名所の1つとして南湖の左富士
が知られている。手前で振り返えり見た道路(東海道)は大きくカーブしてい
た。街道と富士の位置関係によって左側に見えることが良くわかる。」残念ながら今日は曇り空・・富士山を見ることが出来なかった。

南湖の左富士の由来は安藤広重が天保年(1832)に東海道の旅をし、東海道53次の風景版画を発表した中の一枚に南湖の松原左富士が
ある。
東海道の鳥井戸橋を渡って下町屋の家並の見える場所の風景を写し、絵の左には富士山を描いている。

南湖の左富士・碑 鶴峰神社鳥居 鶴峰神社参道 弁慶塚 でかまん本舗

左富士の碑の道路の反対側を見ると、青空に朱色が艶やかに映える鶴峰神社の鳥居が見える。鳥居の奥には600mほどの長い松並木の参道
があり、鳥居から1Km地点に鶴峰八幡宮の社殿がある。
今日は八幡宮には寄らず鳥居の脇の民家の庭にある、義経一族の霊を慰めるために作ったと言われる「弁慶塚」に立ち寄った。

旧相模川橋梁 案内板 相模(馬入)川 馬入橋 ちょんまげ最中

国道号線を更に西北へ歩くと、小出川にかかる鏡橋に出る。橋の手前左側には「東海道一でかまん」の「でかまん菓子舗」がある。700円から
3500円の饅頭である。重そう・・なので、試食だけいただく。
「橋の南側には、鎌倉時代ここに旧相模川が流れて
いた時に架けられた、巾7.2mの大きな旧相模川橋脚が本がある。関東大震災の液状化
で現れたと記されている。現在あるものはレプリカであり、当時のものは地中に埋め戻されていると説明にあった。
鏡橋からさらに約1Kmほど行くと茅ヶ崎市と平塚市の境界になりさらに約300m行ったところが、相模川にかかる馬入(ばにゅう)橋である。
橋は500m位の長い橋で、歩道から左手の川下や
右手の大山の山並みを眺められた。曇り空・・ここでも富士山を見ることができなかった。  
馬入橋を渡って少し歩くと馬入交差点で道は分岐し、右手は国道1号線、左の旧東街道を歩いて行くと、馬入一里塚の碑がある。
馬入交差点には平塚に伝わる故事にちなんだ「ちょんまげ最中」の店舗がある。余談だが新橋には「切腹最中」なるものもある。

馬入一里塚 お菊の塚 見付跡 案内板 脇本陣跡

左手にJR平塚駅見みながら直進し、時期には七夕飾りで梅つかされる駅前商店街を歩いて、紅谷町公園の片隅に「番町皿屋敷」のお菊の墓が
あったと言われ、今は
ひっそり
と「お菊の塚」がある。
番町皿屋敷とは平塚宿役人真壁源右衛門の娘お菊(24才)が行儀見習のため江戸の旗本青木膳邸に奉公に上がった。運悪く主人愛用の皿を割
ってしまい、手打ちとなったという有名な悲しい話。
余談となるが、東京都杉並区永福町の栖岸院(すうがんいん)には「お菊の墓」が、台東区西浅草の本然寺に「お菊稲荷」があるそうです。

再び旧道へ出て少し歩くと、右側に平塚宿東側の入口の江戸見附跡の案内板、同じ並びに脇本本陣跡碑があり、さらにその先に、幕府の法度や
掟などが書かれた札を掲げた場所の
高札場跡碑がある。このあたりが宿場の中心であった事が窺われる。
見附は本来、城下に入る門を示す「城門」をいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持っていた。従って、宿見附も宿の出入り口を意味
すると同時に、宿を守る防御施設として設置された。さらに宿と宿の距離はこの見附を基準とした。一般に江戸側出入り口にあるものを江戸見附、
京側にあるものを上方見附と呼ぶ。
また東海道に直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされ頂部は竹矢来で組まれていた。


高札場 本陣旧跡碑 問屋場跡 平塚の塚・碑 お初の墓

平塚宿の見附は、規模は長さ3.6m、巾1.5m、高さ1.6mの大きさで、江戸見附と上方見附の間は1.5Kmあり、その中に本陣・脇本陣・東西
の問屋場2箇所、高札場,旅籠などがあり、200
軒を越える町並みが続いていた。

高札場とは、切支丹禁制や徒党の禁止など幕府や領主の法令通達を書き記した木の札で、その高札を掲示した場所を高札場といい、各宿場や
村々に設けられた。通常土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで高札が掲げられる
部分に屋根がついていた。

平塚の高札は場の大きさは長さ5m、横1.8m、高さ3mとある。
高札場跡の先にある問屋場跡を右に入り約150m
行った先をさらに左に入ると「平塚の塚」があり、平塚の地名の由来となった塚といわれている。
平塚の塚の由来は江戸時代に編纂された「新編相模の国に風土記」に、桓武天皇の3代孫、高見王の娘政子が東国へ向かう旅をしていた折に、
天安元年(
8577)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され墓として塚が築かれた。その塚の上が平にらなったので里人はそれを「ひらつか」と
呼んできたとある。これが平塚という地名の起こりとなった
。平塚の塚の西側道路に隣接してお初の墓がある。

この「お初」は加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデルで、本名「たつ」の墓であると伝えられる。
おたつは平塚宿の松田久兵衛の娘で、荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷中揄ェ本みつ女の許に奉公に上がっていた。

主人「みつ女」が年寄沢野から侮辱を受けて自害したため、ただちに沢野を訪れて主の自殺した小脇差で仇を討ったという列女で、後に賞せられて
年寄りになっと伝えられている。

旧街道より高麗山 京方見付跡 平塚宿(広重) 花水橋・高麗山 高來神社参道

再度、旧東海道に戻り、西へ300mほど行くと国道1号線にぶつかる。合流して西西北へ100m行くと平塚宿の京方見附の跡碑が左の三角地帯
にある。そこから前方を見ると、
大磯町との境界の看板が見え、次は大磯宿となる。

高來神社 徳川の家紋 化粧坂交差点 旧街道・化粧坂 化粧井戸・案内板

平塚宿の碑を後にし1号線に合流して大磯町に入ると、すぐ花水川(金目川)にかかる花水橋がある。この橋を渡ると、右手に高麗山が見えてくる。

大磯は、朝鮮半島からの渡来人の関東平野における朝廷指定の上陸地点である。大磯から関東各地に別れていったが、その主力は、

大磯から多摩川の狛江、そして入間川の高麗郡にいたる流れであり、大磯はその流れの拠点になった・・説明があった。

そういうことから、大磯には今は高來神社というが、高麗神社がある。

化粧井戸 化粧坂の一里塚 旧街道 大磯八景 江戸見付跡

高来神社前を通って200mほど行くと、化粧(けわい)坂交差点信号で道は分岐し、左側は1号線で右側が旧東海道となる。右側を約200mほど
行くと左側の民家の庭に曽我十郎佑成の妾「虎御前」が化粧に使ったという「化粧井戸」がある。 

美しい榎と松並木の化粧坂・旧街道を行くと「大磯八景」「江戸見付」の案内板がある。三沢橋東交差点で再度1号線に合流し、大磯駅前交差点で
本日のゴール。



今日のコースは JR茅ヶ崎駅→寛永寺の石灯籠→十間坂→第六天神社→南湖の左富士→鶴嶺神社の鳥居→弁慶塚→旧相模川橋脚→馬入橋→
   馬入一里塚→JR平塚駅前→お菊の塚→江戸見付跡→脇本陣跡→高札場跡→問屋場跡→平塚の塚→お初の墓→京方見付→花水川・花水橋→
   高來神社→化粧坂交差点→化粧坂→化粧井戸跡→大磯八景→大磯見付跡→
JR大磯駅

 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第8回 茅ヶ崎〜大磯(平塚宿)」 街道案内人 大井保明歴史講師