Blowin' in the Wind 2011
                          
いっちゃん東海道を歩く・・

江戸日本橋から箱根宿まで97.6Km 

箱根宿:日本橋から10番目の宿場で間宿として畑宿がある。江戸幕府が西国大名の要請により1618年に小田原宿と三島宿の中間点の
箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き関所を設けた。
この地はやせたひどい土地であったため、租税などの優遇措置をとり小田原、三島の
両宿から各50軒ずつ強制的に移住させて作った宿場で、今も小田原町、三嶋町という地名が残っている。

本陣:6軒、脇本陣:1軒、旅籠36

箱根湯元駅を500mほど小田原側に戻り、右を流れるの早川にかかる三枚橋を渡る。箱根越えは時代によってコースが違い古い順から、
碓氷道(上古道)・足柄道(中古道)・湯坂道(近古道)・旧東海道(近世道)・新道(国道1号線)・箱根新道とあり(文献による)、三枚橋は
旧東海道の橋で1号線と別れこの橋を渡る。なお三枚橋の由来は、3枚の板で橋が出来ていたことかから名づけられているとのこと。
ここから箱根峠の上り坂までを箱根東坂、箱根峠から三島宿に至る下り坂を箱根西坂と呼ばれている。

幕末の山崎の戦いでは、官軍の小田原軍と幕府の遊撃隊が、この橋付近で激戦をしたところで幕臣の伊庭八郎(木更津・房総にも縁あり)
が小田原藩士・高橋藤五郎に左手の皮一枚を残し切られたと言う。この戦いで早川が血に染まったと言われている。

三枚橋を渡ると、舗装された狭い交通量の激しい(土曜日のため?)県道の坂を上っていくことになった。約700mほど上っていくと右側に
戦国大名北条早雲の菩提寺の早雲寺がある。1521
年(大永元年)に2代目氏綱が建立したもので、北条氏の庇護の下、大寺院へと発展
するが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めで全てを焼失し、1627年(寛永4年)に僧侶・菊径により再興された。
境内にある梵鐘は、秀吉が小田原攻めのとき石垣山一夜城の陣鐘に使用したと伝えられている。北条5代の墓・お江所縁の道三・宗祇の
墓、秀吉にきつい進言をし耳、鼻を削がれたと言う利休の碑もある。境内には北条幻庵作庭という枯山水の名庭園がある。ゆっくりと歴史を
感じたい寺である。早雲寺山門の文字は朝鮮通信使の方が書いたそうです。

三枚橋 早雲寺山門 早雲寺・本殿 北条氏五代の墓 鐘楼

早雲寺を出て400m程歩くと左側の階段を上がると曽我五郎、十郎兄弟の供養塔や曽我堂で有名な正眼寺がある。五郎が弟で十郎は兄
であり、五郎は箱根で育ったため箱根五郎とも呼ばれて親しまれている。ここには槍の鋭さを試したと言う「槍突き石」もある。

利休の碑 正眼寺・地蔵 正眼寺・槍突き石 一里塚 旧街道案内板

しばらく上っていくと、県道から分かれて下る歩道が右側に現れる。この入口には「国指定史跡 箱根旧街道入口で、この先255mがその面影を残している」との立看板があり、入口の民家の壁際には江戸時代の馬の水飲み場が置かれている。

当時は人間より馬が大事であり、宿も馬のために用意されたもので人間はあくまでも「ついで」であったという。

ほんの少し歩くと石畳の道になり、ようやく旧東海道の箱根越えをしているという実感が沸いてくる。小さな橋を渡ると登りの石畳となり、歩く
うちに先ほどの県道に合流する。 暑い暑い陽射しの上り坂に汗がしたたり落ちる・・石畳道の木陰が嬉しい。

宿場・馬の水飲み場 旧街道・石畳 鎖運寺・初花堂
女転し坂・石碑

割石坂

さらに県道を歩くと、右側の山の中腹に眼を凝らして見ると滝がチラリと見えるというが・・木立で見えない。この滝は初花の滝といい、夫唱
婦随で見事仇討ちを遂げた歌舞伎「箱根霊験記」で有名な勝五郎の妻、初花に因んでつけられたと言う。なお夫婦の墓はこれより400m
程行った右側にある鎖雲寺にある。

鎖雲寺から100mほど道なりに歩いて行くと、こんもりとした小高い山に突き当る。旧東海道はこのまままっすぐの急坂を登る、この急坂は
「女転(ころが)し坂」と言う悩ましい名前がついている。その謂れは立看板によると「急な長い坂のため、この付近で馬に乗った婦人が落馬
して死んだ」ことからきているとのことで、悩ましいと言うか痛ましい話である。

旧街道・石畳 大澤坂
茗荷屋本陣跡
畑宿の街並 畑宿一里塚

少し行くと、東京電力畑宿発電所前で右に割石坂の立看板の立った階段の山道が現れ、これが旧東海道となる。
この割石坂の謂れは、曽我五郎が富士の裾野へ仇討ちへ行く途中、ここで路傍の巨石を真っ二つに割って刀の切れ味を試したことからきているという。槍で岩を突いたり、刀で岩を切ったり凄まじい兄弟であったのであろう・・
600m程上って行くと、県道に出、横切った向こう側に
国指定史跡「箱根旧街道の立杭」があり、ここが箱根旧街道石畳の入口となる。

特に大沢坂は当時の石畳が一番よく残っているところであるとのこと。

江戸幕府は1618年(元和4年)に旧来の湯坂道(湯元から湯坂山ー浅間山ー鷹巣山ー芦ノ湖ー元箱根)を廃止し、湯元から三枚橋を渡って須雲川に沿い、畑宿を通り二子山の南側を経て元箱根に至る古い山路を広げた世にいう箱根八里越えと伝えられる街道を作った。
1680年(延宝8年)幕府の手でこの道に初めて石が敷かれたが、この石敷きは現在でも所々に残っていて国の史跡に指定されている。

現在残っている石畳の多くは、1863年(文久3年)に和宮内親王が14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁されるにあたり、幕府が代官に命じて
改修させたものといわれている。
平均3.6m(約2間)道幅の中央に約1.8m幅に石が敷き詰められていたという。(案内版より抜粋)

石畳の構造を示した立看板がある。箱根旧街道は江戸防衛のため、意識的に歩きにくく設計されているところもあると聞いた。

街道はたびたび改良が行われ初めは箱根笹を横に敷いたりしたが、後に石畳として完成とした。ただがこの場合でも石を不規則に敷いて歩
き難くするなど防衛上の配慮をしている。

しばらく歩くと前面に二子山が青空にくっきり見えた。石畳が切れてしばらく歩くと、右側に畑宿本陣茗荷屋跡碑がある。後ろに見える庭は
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の旧庭で、山間からの水を利用して滝を落とし、池には沢山の鯉を遊ばせた当時評判の立派な庭園で、ハリス
やヒュースケンも見たという。

本陣からすぐ上り道になり、そこには平成10年に復元された江戸日本橋から23番目の畑宿一里塚がある。この一里塚は石畳の両側に残る塚で旧東海道中で唯一その形態を留めるもの(復元されたもの)となっている。山の斜面にあるこの塚は、周囲を盛土、切土と石貼で平坦面をつくり直径9m円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹(現在は欅と樅)したものと発掘調査で判明している。


橿の木坂・石碑
見晴らし茶屋から
追込坂石碑
追込坂・甘酒茶屋へ 甘酒茶屋

畑宿一里塚からは、西海子坂、樫木坂、猿滑坂、追込坂を経て天ケ石坂まで登り坂の連続で、時には200段近い階段を上ったり、急勾配の石畳だったりの険しさは、やはり昔は最大の難所であったろうと実感させられた。樫木坂は「東海道名所日記」に「けわしきこと道中一番なり樫の木の、坂をこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と書いてある(案内板)、どんぐり??ほどの汗を流し階段を登り切ると見晴らし茶屋に辿り着く。小田原の街と海の眺望が疲れを忘れさせてくれる。猿滑坂は「新選相模国風土記稿」で「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と坂の名の由来が書かれある(案内板)。追込坂の階段は10年前に発掘されて復旧されたもので、甘酒茶屋までゆるい坂道となる。 

甘酒茶屋には、赤穂浪士神埼与五郎が討ち入りに急ぐ途中、ここの馬子にいいがかりをつけられたが、大事の前ということで馬子に詫び証文を書いたという逸話が残されている。(事実は同じ浪士の大高源吾とのこと)また茶屋を当時、小田原へ入る諸大名が、ここで一服する場所として利用したので大変繁盛したという。今でも江戸時代の趣を残し甘酒(400円)なども売っている。ここでは冷たい甘酒としそジュースを注文したが、餅を焼く匂い、山盛りのかき氷も旨そうであった。

於玉坂 旧街道・石畳 箱根八里の碑
(馬子唄)
お玉が池へ 権兵衛坂

店の裏手が旧街道になる。追込坂を過ぎると、天ケ石坂の急な上り坂となり、上りきると平坦なデコボコの石畳で、鎌倉道と交差する所にお玉縁のお玉が池の案内板。伯父の家に奉公に行っていたお玉は両親に会いたいがために家を出た。手形がないために関所を破りを企て、死罪となった。もともと「なまずが池」と呼ばれていたこの池に追ってにおわれ身を投げた、処刑されたお玉の首を洗ったとの言い伝えから「おたまが池」と言われるようになったと言う。
それから芦ノ湖へ向かう急な下り坂となる。
下っていくと権現坂の石碑と案内板がある。権現坂を下りながら眼の前の木々の間から芦ノ湖が見えた時きは、なぜかほっとした気分となった。.

杉並木入口 箱根神社・鳥居 芦ノ湖
杉並木
杉並木

芦ノ湖畔まで下りるとそこは大鳥居のある元箱根である。江戸幕府は、1618年(元和4年)に小田原と三島の中間点に宿場を計画したとき、すでに現在の元箱根には宿があったが、箱根権現の門前町であったため遠慮して少し離れた地点に宿場を新設した。こうして新しい宿ができたのでそれまでの門前町を元箱根と呼ばれるようになった。新しい宿場には全く人が住んでいない貧しい土地であったため、税金はとらない、時々、米を無償で配給するなどの優遇措置をとり、小田原からと三島からの両宿から各50戸(約600人)を強制的に移住させた。

一里塚・案内板
葭原久保一里塚

杉並木の石碑
箱根関所・江戸口 富士絶景の場所

約420本の大木の並ぶ旧街道杉並木の中を関所跡まで歩いた。「国指定史跡の箱根旧街道杉並木が、16年間にわたって続けられてきた土壌改良で元気になり、葉が目に見えて茂るようになった」という案内があった。樹齢350年以上、高さ38m、直径5.5mに及ぶものもあるとのことで、これまで生きてきた樹木を、また後世に生きて残せるということは素晴らしいことと、関係者の地道な努力に感謝したい。
この日は梅雨明けの絶好の日和で富士山が見事に芦ノ湖に映し出されていると思ったが・・関所入口の「冠雪をいただいた富士の写真」でこ我慢となったとが残念。

箱根関所・見張所 箱根関所・京口 石畳・説明図 石畳・説明図 杉並木説明図

箱根の関所は1616年(元和2年)に、大阪夏の陣の浪人が江戸へ潜入することを防止するために箱根権現の一の鳥居あたりに設置された。その後、箱根宿開設とともにこの地に移された。昭和40年に復元した番所の建物には、当時をしのばせる人形や資料が揃っている。

箱根関所の厳しさは有名で「入り鉄砲に出女」、すなわち銃火器の江戸への持込みと、西国大名子女の江戸からの脱出を徹底的に取り締まった。ただ新居関所の機能強化や幕府の体制強化などがあって1633年(寛永10年)には鉄砲改めは省略され、女改めが主体となったという。通行時間は午前6時から午後6時まで、管理は小田原藩が担当。関所を通らず、他の場所から抜け出た場合(関所破り)は死罪となったが、この規則は明治2年関所が廃止されるまで存続した。

ただ実際に関所破りで処刑されたのはせいぜい5人程度で、他の多くは管理責任を問われるのを恐れて「道に迷った者」として刑を軽くしていたという。
ゴールは17時・・関所は閑散としていた。



今日のコースは 小田急線箱根湯本駅→三枚橋→早雲寺→正眼寺→鎖雲寺→女転し坂→割り石坂→大沢坂→畑宿→本陣跡→畑宿一里塚→西海子坂→
    橿ノ木坂→猿滑坂→見晴し茶屋→追込坂→甘酒茶屋→白水坂→天ヶ石坂→権現坂→杉並木→箱根関所跡


 クラブツーリズム 「街道を歩く 東海道53次 第12 回 箱根湯本〜箱根宿」 街道案内人 岡山宣孝 歴史講師

2011. 7. 9 箱根湯本〜箱根宿    歌川広重が描いた東海道53次はこちらでどうぞ
 地図上の位置は大まかな位置です。
 実際の位置は案内書等で確認してください。
 
権兵衛坂 
箱根八里碑 
賽の河原 
箱根一里塚 
 西海子坂
猿滑り坂
橿の木坂
箱根石畳 
本陣跡 
畑宿一里塚 
旧東海道 
杉並木 
箱根関所跡 
甘酒茶屋 
茶屋一里塚 
女転し坂 
畑宿 
早雲寺 
鎖雲禅寺